兵庫慎司のブログ

音楽などのライター、兵庫慎司のブログです。

水道橋博士『藝人春秋2』について

  2017年11月30日に出た本なので、今頃何か書くのはだいぶ遅いのですが。

 

藝人春秋2 上 ハカセより愛をこめて

http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163907109

 

藝人春秋2 下 死ぬのは奴らだ

http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163907628

 

  ひとつひとつの言葉の選び方、句読点の打ち方、一文一文に込められたネタや引用など、細部までもうとにかく徹底的に詰められた、異様な完成度をの文章を書く、水道橋博士とはもともとそういう人であって(これすげえ時間かかってるだろうな、一度書いてから推敲しまくるんだろうな、といつも思う)、そのことについては昔、書評を書いたりもしたし、読者としても編集者としても(昔、浅草キッドの単行本を作ったことがあるのです)把握しているつもりなので、今さら驚かない。

 

  ただ、下巻にはびっくりした。

  やしきたかじんの章、『橋下徹と黒幕』の章、石原慎太郎VS三浦雄一郎の章。昔、単行本の帯とかで、浅草キッドを「ルポライター芸人」と形容したことがあるが、そのレベルではない。これ、完全にノンフィクション作家の仕事だと思う、博士が読者として傾倒してきた人々と同じ次元の。

  しかも、取材対象に興味を持ったので迫っていく、というのではなく、自分が言わば登場人物として巻き込まれた、だから書くしかなかった、というのがさらにすごい。というか、怖い。べつに本人は巻き込まれたくて巻き込まれたわけではないだろうが、そのことによって、結果的に「ノンフィクション作家もやっている芸人」にしか書けないものになっているし。

  『お笑い男の星座 芸能死闘編』(文春文庫)をお持ちの方は、その中の『爆笑問題問題』と、改めて読み比べてみることをお勧めする。「自分も登場人物のひとりであるノンフィクションを書く」という構造は同じだが、文章といい、その文章に至るまでの調査やファクト・チェックといい、今回の方がはるかにハードコアだ。水道橋博士がこの十数年で何を経験し、どんなことを感じ、考え、行動に移して来たか、その結果どうなったか、ということを表していると思う。

 

  それから、下巻の最後に書かれた、水道橋博士自身の病気のこと。

  なぜ敢えてこれを書いたかについては、本書の中で記述されているが、勝手にひとつ補足させてもらうなら、書かないとフェアじゃないと思ったから、書いたのではないか。人のことをいろいろ書いておきながら、その書いている時期に自身に起きた、触れられたくないところについては何も触れない、というのはずるい、と感じたのではないか。理屈で考えれば、別にずるいことでもなんでもない。でも生理的にそう感じたからそうしたのではないか。

  僕はそんなふうに受け取りました。

銭湯とサウナとカプセルホテルの話

  昔、会社員だった頃。僕がどこかへ出かけるたびに、「あれ買ってきて」と、必ず食べ物を頼んでくる上司がいた。

 「横浜へ行くの? じゃあ崎陽軒のシュウマイ弁当買って来て」

 「表参道? じゃあまい泉でかつサンド買って来て」

  というふうに。

  会社は渋谷で、崎陽軒は渋谷駅の東横のれん街に入っているから、別にいつでも買える。まい泉も然りで、表参道にしかないわけじゃない。

  でもなんせ、必ず頼んでくる。しまいには「どこ行くの? 青山一丁目? ええと、あのへんには何があったっけなあ」と、本とかで調べ出す始末。あ、携帯もPCもインターネットも普及前の話です。

  なんで? と問い質しはしなかったので、理由はいまだにわからない。お代はちゃんとくれるし、さしてわずらわしいわけでもなかったので別にいいんだけど、ただ不思議だった。

  なんなんだろう。お父さんの出張のお土産が楽しみな子供時代をすごしたんだろうか。逆に、そういう時にお土産がもらえなかったトラウマでもあるんだろうか。

 

  その頃から四半世紀くらい経つが、今の自分がやっていることって、それにちょっと似ている、と気がついた。

  銭湯だ。

  もともと銭湯や温泉の類いは好きだったが、2年くらい前から、松尾スズキさんのメルマガに影響されて、サウナにはまった。

  日常的に通うには、カプセルホテル併設のサウナとかよりも、水風呂とサウナのある銭湯の方がリーズナブルなので、主にそっちに通うようになった。ちょうどフリーのライターになったばかりで、平日昼間に好きに動けることも、それに拍車をかけた。

  半径3キロ圏内ぐらいで、よく行く銭湯を4軒キープしていて(なんだキープって)、普段はそこに行っているが、やがて、ライブや取材に行く先でも、事前に銭湯を探して、時間が許せば早めに行って、風呂に入るようになった。

  当然、気に入れば通うようになる。「時間が許せば」じゃなくて、時間が許すようにスケジュールを考えるようになる。

  特に、東京キネマ倶楽部。徒歩5分のところに、萩の湯という、東京の銭湯好きなら知らぬ者はいない、新しくてきれいで広くて安い名銭湯があるのだ。

  キネマ倶楽部、そうしょっちゅう行くハコではない。年に3~4回ぐらいだが、「このバンドの次のワンマンは……あ、やった、キネマ倶楽部だ!」と喜ぶようになっているのは、もうなんか本末転倒、というか末期的、と、自分でも思うのだった。

 

  地方に行く仕事というと、僕の場合はそのほとんどが、ライブを観て何か書くことなわけだが、「交通と宿は自分で手配して、あとで請求書起こしてください」というケースもよくある。

  で、ライブを観て、飲んで、寝て、早起きして、朝からやってる銭湯もしくはサウナに入って、急いでホテルに戻ってチェックアウトして、東京に帰る。

  ということを数回続けているうちに気がついた。

  これ、ハナからカプセルホテルの方がよくない?

  その方がラクだし。どっちみち宿では寝るだけだし。当然カプセルの方が安いから、クライアントもうれしいだろうし。

  というわけで、今では「名古屋ならここ」「大阪ならここ」というふうに、泊まる先も固定化している。海外からの観光客の増加で、どこの宿も土日は料金が跳ね上がるようになって久しいが、カプセルならその影響もほぼないし。

  昨年11月7日に、フラワーカンパニーズを観に十三ファンダンゴに行った時、会場そばのカプセルホテルに泊まったら、休憩スペースが喫煙OKで煙モクモクだった。閉口したことはしたが、「さすが十三」と感心もした(梅田のカプセルホテルは普通に禁煙です)。

 

  みたいなことを行きつけの飲み屋でしゃべっていたら、「そんなに詳しいなら仕事にすればいいのに」と言われた。

 「銭湯とかサウナとかのライターもいるでしょ?」

  いや、いるけど、テレビとかで観たことあるけど、そんな『マツコの知らない世界』に呼ばれそうな人、世の中でほんの2~3人でしょ。それで充分でしょ。そのジャンルのトップランナータナカカツキ先生、いるし。

  と言ったのだが、後日。週刊SPA! のインタビューコーナー『エッジな人々』で、銭湯絵師の女性が取り上げられていた。

  しかもライター、知り合いだった。彼が特別銭湯に詳しいとか、きいたことない。

  おい。なんできみがやるんだ。だったら俺でよくない? 恵比寿の改良湯と西太子堂の八幡湯と太子堂の富士見湯は壁の絵が一緒である、同じ年代に同じ業者に発注したものと思われる、ということをきみは知っていたりするのか?

  でもその仕事、僕に来るわけないのだった。誰にもなんにもアピールしてないんだから、そういう己の趣味嗜好のことを。

 

  いつも観ている銭湯情報サイトに、ライター募集の告知が出ていたこともあった。でも、「ブロガーのお小遣い稼ぎノリで、とんでもなく安い原稿料のやつだろう」と判断して、近づかなかった。実際はどうなのか知りませんが。

  というか、本当にそれをライターとしての仕事にしたいのか? と自問自答すると、自分でもよくわからないし。

 

  今はどこの銭湯もだいたい、脱衣所でスマホをいじるのは禁止になっている。撮影しなくてもダメ、まぎらわしいので触ること自体NG、という。なので、個人ブログに脱衣所や銭湯の中の写真が上がっているのは、どれもある程度昔のものです。

  で。先日、行きつけの中の一軒で、脱衣所でスケッチブックを出して、風呂場と脱衣所のレイアウトを描いてる男に出くわした。

  プロとかじゃなくて普通のマニアなんだろうけど、ここまでの情熱、俺はないなあ……と、しみじみ思いました。

小説家・いしわたり淳治について

 

www.chikumashobo.co.jp

  2017年11月に出た、いしわたり淳治10年ぶり・2冊目の小説集。

  公式サイトでは「“超”短編小説」と謳われているが、僕くらいの世代だと「ショートショート」という呼び方がしっくりくる。星新一とか筒井康隆とか眉村卓とか。よく読みました、昭和の時代に。

  ただし、いしわたり淳治のこれは、もっと手が込んでいる。10年前のデビュー作もそうだったが、「そうか、ショートショートというジャンルを今の時代においてもっとも鋭く新しいものとしてアップデートするとこうなるのか」と、唸るほかないおもしろさ。

  うまいなあ、と一本一本読み進むたびに思う。おすすめです。

 

  ショートショートというジャンルは今も残っているけど、それで名を成している作家、というとぱっと浮かばない、ということは、今この分野はこの人の独壇場だとも言える。

  現に、10年前のデビュー作『うれしい悲鳴をあげてくれ』は、2014年にちくま文庫で文庫されて以来、累計20万部オーバーのヒットになっている。

  書店で派手に展開されてどんどん売れていくさまを、その頃よく見かけた。いや、どんどん売れるから派手に展開されていたのか。とにかく売れていた。今でもよく平積みになっているので、ロングセラー化しているのだと思う。

 

  作詞家・プロデューサーとしては確固たるポジションのある人だけど、小説家としては無名なわけで、そう考えるとこの数字がどれだけ異常であるかがよくわかる。

  「あ、『関ジャム』に出て鋭いこと言ってるプロデューサーの人の本だ」と思って買った人は、いないと思う。っていうか、2014年にはまだ出てなかったか。いや、出てなかったんじゃない、まだ『関ジャム』自体が始まってなかったんだった。

  とにかく、「作詞家」「プロデューサー」「元スーパーカー」とか関係なく、「無名だけどおもしろい新人作家」として売れたわけで、それ、すごいことだと思う。

 

  で。この人の作家としての活躍ぶりを見るたびに、なんというか、ちょっと複雑な気持ちになるのだった。

  その10年前の『うれしい悲鳴をあげてくれ』、ちくま文庫に入る前の元の本は、ロッキング・オン社から出た。

  僕が編集したのです。

  その時は初版止まりだった。今の小説の書籍のアベレージだと、まあまあの数字かもしれないが、当時としては、あんまりいい数ではなかった。

  その本が、後にちくま文庫に入ったら、20万部オーバーの大ヒット。これはどういうことでしょう。最初の本の編集者が、売れるポテンシャルを持っている作品を全然売ることができなかったポンコツだ、ということでしょう、どうしたって。

 

  というわけで、「昔の自分にがっかり」「そして今の自分にも落胆」みたいな、にがーい気持ちになってしまうのでした。

  でも事実だしなあ、これどう考えても人のせいにしようがないよなあ、という。

 

  当初は、ロッキング・オン・ジャパンスーパーカーのインタビューをしていた山崎洋一郎が洋楽に異動になって、ナカコーは違うけど、いしわたり淳治は僕がインタビューするようになって付き合いが始まり、ロッキング・オン・ジャパンで連載を持ってもらうことになった。

  で、しばらく経ってから「単行本にしましょうか」という話をしたら、本人が「ショートショートのストック、いっぱいある」と言い出して、見せてもらったら本当に膨大な数あって、しかもどれもおもしろくて、結果的にほとんど書き下ろしみたいな形で、エッセイ&ショートショートの本として、1冊になったのでした。

 

  本が出てしばらくしてから、渋谷の飲み屋でばったり出くわして以降、もう何年も本人とは会っていない。

  まあ、会わせる顔がない、というのもある。

  あるが、そういえばこの間、関西のライターでありABCラジオ『よなよな』火曜のDJであり昔のロッキング・オン・ジャパンのハードコア読者である鈴木淳史に、

「兵庫さん、昔、淳治くんとM-1、観に行ってはりましたよね」

  と言われた。

  完全に忘れてた。行ったわ。で、それを記事にしたわ。

2002年だっけ、決勝戦は、お台場のパナソニックセンターのスタジオから生放送で、その前にセンターの前の寒い寒い吹きっさらしの屋外で、40組だか50組だかの敗者復活戦があって、それも全部観たんだった。

  私は寒くて死にそうでしたが、彼は満面の笑顔のまま、何時間も立ちっぱなしで観ておられました。

  そのあとの決勝は、よしもとの知り合いにお願いして、彼はスタジオの中で観戦、僕はロビーで他の記者たちと一緒にモニターで観たんだった。

  帰り道も淳治さん、すごい上機嫌でした。「俺もやらなきゃと思った!」とおっしゃってました。

  いや、「やらなきゃ」って、スーパーカーやってんじゃん。と、思ったのを憶えています。

 

  あ、その最初の本、『うれしい悲鳴をあげてくれ』は、こちらです。

www.chikumashobo.co.jp

※追記:以上をアップしてから、「いしわたり淳治の連載を立ち上げたのは兵庫ではなくて当時ジャパン編集部にいた宇野維正ではないか」というご指摘をいただきました。そうです。正しくは、宇野が連載を立ち上げる→私が引き継ぐ→単行本化、という順でした。私が立ち上げたように取れる書き方をしてしまい、大変失礼いたしました。

「年間×回」の話

  1月7日朝放送の日本テレビ誰だって波瀾爆笑』の『究極の食べ方グルメ』というコーナーで、家系ラーメンの店で通が食べ方を指南する、みたいなのをやっていたのだが、その役で、家系マニアとして知られているというプロの釣り師、RED中村という人が出ていて、ナレーション&テロップで「家系ラーメンを年間50杯食べる」と紹介されていた。

 

  少なくない?

 

  それ週に1杯以下ってことよね。普通じゃない? 「マニア」「指南役」として登場するにしては。一般の人でも、好きだったらそれくらいあたりまえに食ってる数じゃない?

 

  ちょっと前に、やはりテレビで、これと同じことを思った。2017年9月23日放送のテレビ朝日ラストアイドル』で、審査員として指名されたアイドルライターがテロップで「年間50回以上アイドルのライブに通っている」と紹介されていたのだ。

  少なくない? アイドルのファンって熱心だし、普通に年間100本ぐらい通っている人、ゴロゴロいるでしょ。その中でライターが50本って、逆に「プロなのにそんだけしか観てないの?」みたいなことにならない?

 

  いや、別に、その家系マニアの釣り師やアイドルライターを責めたいわけではない。数が多ければ多いほどいい、というわけでは必ずしもないし。現に、僕の同業者で、全然ライブの現場で見かけないけど僕より売れている人や、僕よりおもしろいことを書く人、普通にいるし。

 

  要は。番組の制作スタッフが、そうやって「年間×杯」「年間×回」を使って「この人すごいんですよ」ってことを説明しようとする際の、数に対するジャッジが雑すぎないか? という話です。

  「年に何杯ぐらい食べるんですか?」と訊いて「50杯くらいですかね」という答えが返ってきた時点で、なんで「あ、ダメだ、紹介で使うには弱いわ」って思わないのか。もしくは、それがADだったとしたら、その上のディレクターとかが、なんで「ダメだよこの数じゃ、なんかほかの紹介にしろよ」ってチェック入れないのか。

  プロフィール紹介で「年間×回」を使う時って、たとえばサニーデイ・サービス田中貴の「ラーメン年間600杯以上」くらいのバカみたいな数字じゃないと、有効じゃないでしょ。

  僕は年間180本くらいライブを観ているが(今、去年の手帳を見てざっと数えたらそうでした)、それを売りにしようと思ったことがないのは、さっき書いた「必ずしもいっぱい観てればいいってわけじゃない」という自覚があることと、俺くらいの数ライブを観てる人、音楽ライターならめずらしくないだろうし、ライターでなくても熱心なライブ好きならそれくらい観てる人いそうだし、ということのふたつが理由です。

 

  ご本人たちは、訊かれたから答えただけだと思う。紹介テロップで使われると思ってなかったからかもしれないが、数を盛らなかったのは正直でいいとも思う。アイドルライターの場合は、下手に盛ると同業者とかに「あいつそんなにライブ来てねえよ、見かけないもん」とバレるかもしれないが、家系ラーメンは誰にもバレないでしょ。

  と考えると、彼らは「大した数じゃないのに自分ではすごいと思っている人」みたいに見えてしまった、という意味で、被害者だとも言える。

 

  ただし。

  僕の知人、関西で活動しているライター/ラジオDJ、ABCラジオ『よなよな』火曜担当の鈴木淳史が、関西ライター界の大先輩、吉村智樹氏のイベント『関西ライターズリビングルーム』の10回目、1月24日の回に出演するというので、ツイッターとかでその告知が出回っていたのだが。

  彼の写真に付いているコピーが、

 

700組のアーティストにインタビューしたライターが語る

音楽について書く、僕なりの方法

 

  というものだったのですね。

  700組か、それって多いのかな少ないのかな、この数になるともうパッとジャッジできないなあ、じゃあ俺は今まで何組インタビューしたのか、全然わからないし今さら数えようもないなあ、そうか、それ鈴木淳史はちゃんと数えてたのか、俺も数えときゃよかった。

  とか思っていたのだが。

  その数日後。12月26日放送の『よなよな』で、本人ががその話に触れた。

  曰く、今まで何人くらいインタビューしたかと訊かれて、全然わからなくて、「そうですねえ、ヒクソン・グレイシーの無敗記録ぐらいちゃいますかね。700戦無敗っていう」と答えたそうだ。

  違いますよね。400戦無敗ですよね。本人も家に帰って調べて「あ、違った、400戦無敗だった」と気がついたが、そんなふうに紹介コピーで使われるとは思ってなくて、「まあいいや」とほったらかしにしていたところ、こういう形で出てしまったという。

 

  というくらい雑な人もいるんだから、年間50回が少ないとか気にしている神経質な奴は俺くらいかも、という気もしないでもない。「700組」って、上に盛ったのか下に盛ったのかすらわからないし、もう。

 

  以上、なんで年明けの一発目に書くことがこれなのか、自分でも甚だ疑問なブログでした。

  2018年もどうぞよろしくお願いいたします。

12/9エレファントカシマシ富山オーバード・ホール、の余談

   エレファントカシマシのデビュー30周年記念全都道府県ツアーのファイナル、12月9日富山オーバード・ホールに行きました。

  このツアー、前半日程(3月から7月まで)も後半日程(9月から12月まで)も複数回観ましたが、やはりバンド史上もっとも多い本数の、長い期間の、そしてキャリア最大の動員を記録したツアーのファイナルだけあって、とても特別なライブでした。

 「悲しみの果て」で宮本が感極まって歌えなくなったりして、それまだ6曲目だったから、前半から早くもアンコールみたいな感動に包まれたりして。

 

  ただこれ、観てレポを書いてくれ、という仕事をいただいて行ったものなので、ここで詳しいことを書くのは道理に反するのですね。

  なので、そのレポにはまず書かない、余談的なことだけ書きます。

  

  エレファントカシマシ、今回のツアーの趣旨に合わせて「都道府県Tシャツ」というグッズを販売していた。

  フロントに「エレカシ」、背中に「東京」「大阪」とデカデカと描かれたデザインで、それが色違いで全都道府県分あって、それぞれの県でのみ販売される、というもの。すごい人気で、どこの会場でも即完していました。

  この富山はツアー最終日ということで、日本各地のTシャツで客席が埋まっていて、上の階から見下ろすと大変に壮観だったんだけど、それ、お客さんだけではなかったのでした。

  最終日だからということで、スタッフも着ていたのです。それぞれ自分の出身地のTシャツを。舞監のマサミさんは千葉、ローディーの丹下さんは神奈川、というふうに。お客さんみんな気づいていたと思う。

  エレカシのメンバーの同級生であるローディーの本間さんは、赤字に黒の北区Tシャツで、ギターを替えに来る姿がとても目立っていました。

  ちなみに北区は、すべてのTシャツの中でおそらく唯一の、都道府県名ではないやつです。1本目(3/20の大阪城ホールを入れると2本目)の4/8東京都北区王子・北とぴあさくらホールで販売されました。ちなみに東京は7月9日のオリンパスホール八王子での販売。

  あ、唯一じゃないや。ツアーとは別だけど、9/18の日比谷野音は「野音」Tシャツだった。

 

  で。このTシャツの件が、私の、最大の後悔でした。

  本番前のスタッフ・ルームにみんな集まって、互いのTシャツを見てワイワイ言っているところに入って行った瞬間、「しまった」と思った。

  そして案の定、事務所の田村社長に「なんでおまえ兵庫Tシャツ着てねえんだよ!」と叱責された。

  7月2日の神戸国際会館に行った時、兵庫Tシャツをいただいたのです。会場に入ったら、舞監マサミさんが満面の笑みで「来た来た! ほら、これ着て着て!」と。

 

 「いや、そういう趣旨なんだったら教えてくださいよ! そしたら着てきたのに!」とは言ったものの、それくらい察して持って来ることができなかった、己の気の利かなさを呪いました。心から。

 

  ただ、田村さん、俺、兵庫出身じゃないです。広島です。というのはありますが。

三島タカユキさんが亡くなった

  カメラマンの三島タカユキさんが亡くなったことを、昨夜(11月30日)知った。

  今年4月に食道がんであることがわかり、手術し、闘病を続けられていた。

 

  昔、ROCKIN’ON JAPANなどで何度か撮影をお願いし、一緒に仕事した。

  また、ここ数年は、フジ・ロックに行く時、僕がレンタカーを借りて、三島さんとカメラマン岸田哲平を乗せて苗場まで行って(ふたりとも免許がないのだ)、月曜の朝にまたふたりを乗せて、東京まで帰って来るのが恒例になっていた。

  苗場に着くと乾杯して、それぞれ会場へ散って行って(彼らは仕事だけど僕は遊びなので)、GREEN STAGEのトリが終わるとグリーン・オアシスに集まってちょっと飲みながら、その日観たアクトの話をするのが楽しみだった。

  今年は三島さんが欠けてしまったが、来年はまた同じメンツで行けると思っていた。

 

  ビデオデッキ普及前でライブ映像などそうそう観られる時代ではなかった子供の頃、海外の雑誌や日本の洋楽雑誌に載っている欧米のバンドたちのモノクロのライブ写真を、いつもドキドキしながら観ていた。

  それから十数年経って、三島タカユキという人のライブ写真を知った時、「俺があの頃観てた写真と同じのを撮る人が日本にいるんだ!」と、驚いたのを憶えている。

 

  自分より先に亡くなってしまった人に対して唯一できることは、その人のことを忘れないことだと、僕は思っている。

  お世話になりました。ありがとう。忘れません。と、三島さんに伝えたい。

 

  生前最後に出た、彼の写真を観られる本=三島さんと岸田哲平が中心になって作った『SQUAD』のリンクを貼っておきます。

http://squad-zine.com/

どうやって食ってるのかわからない人

 音楽業界・出版業界に入って26年目、フリーのライターになって3年目になるが、入ってわりとすぐに気がついた、きっとこの業界が他の業界と違うところのひとつなんだろうなあ、と思うポイントに、

 

どうやって食ってるのかわからない人がけっこういる

 

というのがあった。

 

マネージメントで、セールス・動員がこれくらいのバンドがひとつしか所属していないのに、社長・社員・メンバーみんななんで食えてるんだろう?みたいなわかりやすい例もあったし(レコード会社から育成金とかが出ていてそこから給料を払う、というシステムだったことをのちに知る)、「この人、本当になんでおカネを得ているのか全然わからない」というわかりにくい例もあった。

で。気がついたのですが。

今の自分、限りなくその後者に近いことになってないか?

 

音楽を中心にしたフリーのライター、と名乗っているし、実際にその界隈で仕事しているが、この間も「ライターとしてメインの媒体ってどこなんですか?」と訊かれて、「ないです」としか答えられなかったし。

そのように、「このライター、ここの仕事が中心なんだな」ということがわかるくらいいっぱい書いているメディア、ない。

連載のとかのレギュラー仕事、ないことはないけど、少ない。単発の仕事が多い。

著書もない。「フラワーカンパニーズの本、著書でしょ」と知り合いの作家は言ってくれたが、あれ、あきらかに僕の本じゃなくてフラカンの本だし。

「このバンドが動く時は兵庫に書かせよう」みたいな感じで、レーベルなりマネージメントなりからいただくオフィシャル・ライター的な仕事、ありがたいことにいくつかあるが、それももちろん「必ず」というわけではないし。

 

そんなにいっぱい仕事してるっけ? 食えるくらい書いてるっけ?

えーと、私、基本的に、雑誌もウェブも、記事が世に出るとツイッターで宣伝するようにしているのですね。それを1ヵ月分全部見ていただくと、まあまあの量になりますよね。

プラス、たとえば、エレファントカシマシフラワーカンパニーズのファンクラブの会報からよく仕事をいただいているのですが、それ、ツイートするのやめたのですね。宣伝したところでファンクラブの会員しか読みようがないし。

というふうに、ツイートしていない仕事もちょっとあります。というところまで含めると、なんとか生活していけるくらいの月収になりません?

 

というところまで、僕の仕事のことを把握している人は、まあ、いないと思う。というか、僕しかわからないと思う。

なので、ハタから見ると、「週刊SPA! に月にいっぺんくらいCDレビュー書いてるだけなのに、なんで食えてんの?」「ROCKIN’ON JAPANでちょっとインタビューしてるだけでなんで生活できんの?」「kaminogeのコラムって、それだけで食えるくらいおカネくれるの?」みたいなふうに見えるだろうなあ、という話です。

 

ただ、自分でも「なんで俺、食えてるんだろう?」とは、よく思う。

まだ2年半食えてるだけだが、フリーになる時は、もっと苦労するだろうと思っていた。

僕は自分の名刺の肩書に「ライターなど」と入れているんだけど、その「など」というのも、ライターだけで食うのが無理になった場合のためにつけたんだと思う。

「ライター・編集」とか名乗るほど編集に自信あるわけじゃないが、「ライター」だけだと「ライターの仕事以外やりません」みたいに見えるかも、という弱腰な理由です、おそらく。

それこそ、フリーになった当初は、コンビニの店員が自分と同じ年齢くらいの風貌だと「よし! 俺も雇ってもらえる!」って安心したりしていたし。

いや、「当初は」じゃないな。今でもけっこうそうだな。

 

この間、「なんで食えてたんですか?」と訊いて、「それで食えてたんだ!」と本当にびっくりさせられた、知人の例があった。

初めて会った二十数年前は、誰でも知っている大人気バンドのマネージャーだった。

そのあと、ロック・ファンなら知っている人気バンドを発掘し、世に送り出した。

で、そこから先は、自分で事務所を立ち上げたりとかいろいろしていたんだけど、いつの間にか会う機会がなくなっていて、先日、久々に顔を合わせたのだった。

 

「ここ数年、何やってたんですか?」と訊いたら、業界内の某大手の会社の偉い人と親しくて、「新人を発掘してよ」ということで、毎月「発掘代」みたいなおカネが、それだけで食えるくらいの額、振り込まれていたという。

で、実際の仕事は、月に一回「今月はこうでした」というレポートを出すだけで、そのまま数年間が経過したという。

 

「毎日何してたんですか?」

「んー、何もしてなかったねえ」

「……」

 

さすがに「もう無理」みたいなことになって、それが終わって、だから新しい仕事を始めていて、その関係で僕も会ったわけなんだけど、「そんなことあるんだあ」と、とてもびっくりしました。

いいなあ、俺にもないかなあ、という気もするが、「もしあってものっかったら絶対ヤバいことになる」という気もする。あ、その人は、特にヤバいことにはなっていませんが。