兵庫慎司のブログ

音楽などのライター、兵庫慎司のブログです。

フェスと体力の話

  5月27日、東京・新木場若洲公園の『METROPOLITAN ROCK FESTIVAL 2018』、通称『METROCK2018』の2日目に行った。仕事で行ったんだけど、ライブを観てレポを書くとかは一切ないという、自分的にちょっとめずらしい参加のしかたでした。

  その仕事の事情で、男性ひとり女性ひとりと、終日一緒に過ごした。ふたりともフェスは初体験だったそうだが、開演30分前の11時頃に着いて、3つのステージを移動しながらいくつかライブを観終わった頃のこと。

 

 「体力が残り3割を切りました……」

 「私もです……ちょっと休みながらにした方がいいかもです」

 

  と、ふたりが言う。

  びっくりした。いやいやいや、まだ14時じゃん。ちょっと歩いただけじゃん。確かに5月にしては暑い日だけど、真夏のフェスに比べたら……あ、そうか、この人たち、その経験はないのか。でも、『METROCK』って端から端まで歩いても15分くらいの、こぢんまりしたフェスなのに。

  男性は31歳、女性はそのちょっと下。若いじゃないか。ふたりとも「普段デスクに向かいっぱなしの仕事で、ほんとに体力がないんです」と言うが、いや、俺だってそうだよ……と、思ってから、気がついた。

  週に何度も2時間とか2時間半とか立ちっぱなしでライブを観て、フェスの季節になると毎週末のように1日20キロとか歩いている僕のような奴は、決して「俺だってそうだよ」ではないことに。

 

  そう考えれば、音楽ライターというのは、たとえば映画や演劇なんかの他ジャンルのライターに比べて、体力が必要な職種なのかもしれない。音源とライブの比重が完全に入れ替わった、ここ10年くらいで特にそうなったとも言える。

  あと、前から僕が気になっていたこととして、「音楽ライター、意外とフェスに行かない」というのがあった。レポを書くとかで、フェスに行く=そのまま仕事になることが、世間のフェスの多さのわりに、実は少なかったりする。という事実はあるが、仕事にならなくても行く僕からすると、「行きたくならないの?」「気にならないの?」と不思議に思う。

  で、フェスが嫌い、あるいは興味ない、だから行かない、というならわかるが、そんなふうでもないようなのだ、みなさん。出演アーティストが発表になるとツイートで感想を述べたりとか、あそこのフェスは嫌だとか、ネットのフェスの即レポって意味あるのか? とか、フェス関連について何か言いたくはあるようなのですね。でも、現場にはそんなに行かない、行くとしても好きなバンドが来日する年だけ、というような。

  普通の音楽ファンならわかる。仕事が忙しくて行けないとか、子供が小さくて無理とか、当然あるだろう。でも、我々、普通の音楽ファンとは言えないし。音楽の仕事で食ってるんだから。

 

  あれ、なんでだろうね? と、ライブもフェスも僕以上に行きまくっている、後輩のライター(と言っても余裕で40オーバー)に訊いたら、彼は簡潔にこう答えた。

 「しんどいからですよ」

  え? だって40代半ばのきみや、今年50の俺はがんがん行くじゃん。

 「だから、僕らの方が異常なんですよ。僕ら、体力ある方なんですよ。兵庫さん、毎週何十キロもバカみたいに走ってるじゃないですか。僕もバスケめちゃめちゃやってるし」

 

  誰がバカみたいだ。とイラッとしつつも、思わず納得した。そういえば「よくフェスに行く」側のライターは、ほぼ例外なく、我々と同じように普段から走ったりしている人たちだ。

  「とにかく、自分が標準だと思わない方がいいですよ。真夏のフェスって、興味あっても行くのをためらう程度にはしんどいものなんですよ、普通は」と、彼は言うのだった。

  確かに。普段生活していて、1日に20キロ以上歩くことなんて、まずないですよね。

  そういえば昔、北海道のRISING SUN ROCK FESTIVALに初めて行った時、取れた駐車場が会場から遠目の場所だったのと、テント券がいちばん奥のエリアだったのが重なって、「レンタカーを下りて入場ゲートをくぐって自分たちのテントの場所まで歩く」が、「渋谷から三軒茶屋まで歩く」ぐらい時間がかかった。

  夜中に連れのひとりが「クルマに忘れ物したから取ってくる」とテントを出て行って、いつまで経っても帰って来なくて、ずいぶん経ってからやっと戻って来たので、「どこ行ってたの?」と訊いたら「クルマまで行って戻って来ただけだよ!」とキレられたのを憶えています。

 

  で、これ、もちろんライターに限った話ではないわけだ。つまり、普通にあちこちの野外フェスに足を運んでいる30代や40代や50代のあなたは、そういうのに興味のない同年代の職場の同僚と比べると、異様に体力がある人だということです。

  だからなんだ。と言われれば、「いいえなんでもありません」と答えるほかないが。

 

  ちなみに、『METROCK』であっという間にバテた若いおふたりは、ブースで無料配布されていたモンスターエナジーと、それぞれのアクトのライブのすばらしさに助けられて、結局、大トリのサカナクションが終わるまで、フェスを満喫することができました。「モンスターエナジー、効きました!」と何度も言っていた。

GLIM SPANKYは革命を起こしたのかもしれない

   と、2018年5月12日の、GLIM SPANKY初の日本武道館ワンマンに行って思った。すばらしいライブだった。で、なんとも感慨深い気持ちに包まれながら、全25曲のライブを堪能させていただいた。

 

  ただし、その感慨、「遂にここまで辿り着いたか、この人たち」みたいなことではない。GLIM SPANKY、武道館くらい余裕でできるようになるだろうと思っていたし。むしろ、「武道館すっ飛ばして横浜アリーナとか幕張メッセとかに行っちゃうかも」とすら思っていた。ある部分はオールド・ウェイヴだけど、ある部分は普通に今の若者たちである松尾レミと亀本寛貴、ふたりとも日本武道館というハコに対する思い入れとか、特にない様子だったし(という印象を、最初にインタビューした時に受けました)。

  僕が感慨を覚えたのは、武道館を埋めたお客さんに対して、なのだった。

 

  2014年にGLIM SPANKYがデビューした時、まっ先に飛びついて絶賛した著名人は、みうらじゅんだった。次いでリリー・フランキー。その後もあちこちから高い評価を得ていき、2015年12月には桑田佳祐TOKYO FMの自身の番組『桑田佳祐やさしい夜遊び』で「2015年邦楽シングルベスト20」の2位にGLIM SPANKYの「ほめろよ」を選出する、という事態にまで至る。

  ちなみに、音楽雑誌ロッキング・オン・ジャパン誌で最初に絶賛したのは、洋楽誌邦楽誌総編集長の山崎洋一郎(1962年生まれ)だった。もうひとつちなみに、僕(1968年生まれ)が最初にGLIM SPANKYをインタビューしたメディアは、週刊SPA! だった。おっさんが読む週刊誌で、その中でもおっさん寄りのライターがインタビューした、ということですね。

 

  このように、新人アーティストがおっさんから支持される、というのは、「耳が超えたファンに認められる」みたいな捉え方もできるけど、必ずしも全面的にいいことだとは限らない場合もある。と、僕は経験上知っている。30代40代の音楽業界人や大人のロック・ファンは大喜びしたが、若い層にまでは支持が広がっていきませんでした、みたいな具体例が、これまでにいくつかあったので。

  つまり、大人にばかり支持されていると、いつか頭打ちになるのではないか? 若年層のファンも取り込んでいかないと、たとえば「O-EASTまでは満員だったけどZepp Tokyoからキツくなる」みたいな事態になるのではないか? という心配が、僕にはあったのでした。

  心配なあまり、リアルサウンドのインタビューで、ご本人たちにそういう話をしたこともある(こちらです。http://realsound.jp/2016/07/post-8141.html )。

  もちろん、そんなことを言われても困るばかりなのだった、おふたり的には。失礼しました。

 

  その僕の不安は、ワンマン・ライブに行くと、さらに裏付けられることになる。やはりというか予想以上というか、驚くほど平均年齢が高く、男が多い。長髪率や革ジャン率、洋楽バンドのTシャツ着用率も高い。

  やっぱりこれ、いつか頭打ちになる時が来るんじゃないか? と、心配しながら、赤坂BLITZ、新木場スタジオコースト、と、規模が大きくなっていくワンマンを追っていた。

  その認識が変わったのは、2017年6月の、初の日比谷野音ワンマンだった。3000人オーバーに拡大したキャパがソールドアウトしたこの野音でも、その客層の状態、変わらなかったのだ。

  あれ? この規模でも大丈夫なんだ? じゃあ、もしかして、このままどこまででも行けるってこと? 若年層にリーチしなくても、新たなおっさんを増やしながら、規模拡大しつつ進んで行くのが可能っていうこと?

 

  可能、っていうことなのだ、どうやら。という事実を証明したのが、この日本武道館だった、というわけです。

  「Charのワンマンか?」「昔の大物外タレか? チープ・トリックとかの」などと言いたくなるような空気だった、ロビーも客席も。

  いや、さっき書いた「若年層にリーチしなくても」というのは言い過ぎでした。若い世代のファンや、女の子のファンも、以前より確実に増えているのが目に見えてわかる。フェスに出たりした効果だと思う。ただ、そっちも増えているんだけど、それによっておっさんファンが減ってはいない、むしろキャパ拡大した分おっさんも増えているので、薄まった感じがしないのだった。若いファンが増え始めたことによっておっさんファンの増える勢いが下がってはいない、ということだ。

 

  日比谷野音の時も頭によぎったが、この日、確信に変わった。GLIM SPANKYのこのファン層、ここまで来ると、もう「現象」と呼んでいいのではないか。10代20代をつかまないことにはブレイクが不可能だった、日本のロック・シーンにおける革命なのではないか。

  これで、若いファンの方は本当に一切増えていない、というのであれば、さすがにちょっと不安になるかもしれないが、先に書いたようにそんなことない、そっちはそっちで増えているからいいや、というのもあります。

  4月28日にARABAKI ROCK FEST.でもGLIM SPANKYを観たが、その時の集客もすごかったし。私、まったくテントに入れなくて、外で聴きました。

 

  なぜGLIM SPANKYの音楽がそうなのか、については、正直、よくわからない。BUMP OF CHICKENでロックに目覚めた松尾レミと、GLAYがきっかけでギターを持った亀本寛貴のユニットが作る音楽が、なぜそんな現象を起こしているのか、については。

  そもそも、彼女たちがルーツにしている60年代の英米のロックって、彼女たちのファンであるおっさん連中にとっても、リアルタイムではない。それこそ渋谷陽一くらいの年齢(1951年生まれで67歳)じゃないと、リアルタイムでは知らないだろう。

  後追いで古いロックを聴いています、そういうのが大好きです、というのはあるかもしれないが、でも、たとえば今年50歳の僕だって、あたりまえにそういうルーツ・ロックを聴いてきたけど、同時に、その時代時代で、テクノやハウスやヒップホップもあたりまえに聴いてきた。GLIMのファンだってそうだろう。つまり、昔っぽいロックだから昔を生きてきたおじさんたちが飛びつく、というような簡単な話ではない、ということだ。

  60年代・70年代の洋楽に近い音を出すバンド、昔もいたし、今もいるし、きっとこの先も出て来るだろうが、その人たちがGLIM SPANKYのような支持の集め方をして来たか・して行くか、というと、そうはならないんじゃないか、とも思う。

 

  とにかく。言わば「日本のロック・バンドの、新しいファンの獲得のしかた」のモデルケースが、こんなふうに増えていくのは、いいことだと思う。

  GLIM SPANKY、何年か後には、ローリング・ストーンズの来日公演とおんなじ感じの客席になった東京ドームで、ワンマンをやっているかもしれない。

  逆に、ここから若いファンの増加率が一気に巻き返して、普通の客席になる可能性もある。どちらにしても、楽しみです。

フラカンと田島貴男が同じステージに立った日、に思ったこと

   2018年4月21日土曜日、新宿ロフト。『シリーズ・人間の爆発』で、フラワーカンパニーズ田島貴男と共演した。同イベントはフラワーカンパニーズが続けている対バン企画で、田島貴男は全国ツアーやライブ作品リリースするなど精力的に活動している『ひとりソウルショウ』でのステージ。

  この日のMCで鈴木圭介も改めて説明していたが、きっかけは1年前、2017年3月1日のTHE COLLECTORS日本武道館で、圭介と田島が隣の席だったことだそうだ。それまで長きにわたり接点はなかったが、ORIGINAL LOVEのファースト・アルバムに衝撃を受け、それ以来好きだったという圭介が挨拶し、田島が「フラカン? あ、『深夜高速』の? あの曲ヤバいよねえ!」と絶賛、メアドを交換したところから交流が始まって、このゲスト出演が実現したという。

 

  今の田島貴男のライブはヤバい、特に『ひとりソウルショウ』がえらいことになっている、というのは、ファンはもちろん彼の仲間のミュージシャンたちの間でも知れわたっているが、「まさに!」な、もう圧倒的としか言いようのないパフォーマンスだった、この日も。

  「接吻 kiss」「朝日のあたる道」「夜をぶっとばせ」「JUMPIN’ JACK JIVE」など自身の代表曲を連発、この日の2日後に配信リリースされた新曲「HAPPY BIRTHDAY SONG」もプレイ、さらにフラカンの「深夜高速」のカバーも披露。

  初めて観るわけではない僕でもビビったので、初見のフラカンファンはもう度肝を抜かれたと思う。田島貴男がキックとギターのボディを叩いて作るビートに合わせて、曲の頭で客席から手拍子が起こるが、歌が入るとそれがだんだん止まってしまう、でも曲が終わるとドーッと拍手&歓声。つまり「盛り上がらなくて手拍子止まる」のではなくて「あまりのすごさに見入っちゃって手拍子するの忘れる」みたいな空気だった、終始。

 

  そんな田島貴男の大熱演を受けての、フラワーカンパニーズ鈴木圭介の、最初のMCでの発言。

  「27年前の自分に言いたい。続けろ! 続ければ田島貴男がおまえの曲を歌ってくれる日が来るぞ!」

  ORIGINAL LOVEのファースト・アルバム、リリース当時、聴いて衝撃を受けたという。で、自分の携帯のメアドをそのファースト・アルバム収録の曲名から付けていて、なのでメアド交換の時、恥ずかしかったという。

  フラカンORIGINAL LOVEをカバー、曲はそのファーストから「LOVE SONG」(メアドにした曲はこれではないそうです)。演奏が終わってグレートマエカワ、当時、圭介とミスター小西が「すごいのが出て来た、これ聴いて!」と機材車の中でORIGINAL LOVEのファーストをかけていたのを思い出す、という話をした。

 

  そしてアンコールでは、フラカン田島貴男が加わって「真冬の盆踊り」をやる、というサプライズもあり。楽しそうにテンション高くはっちゃける、ステージ上の5人とステージ下の満員のお客さんたちを観ながら、さっきの圭介の「27年前の自分に言いたい。続けろ!」を思い出し、なんだか勝手に感慨深い気持ちになってしまった。確かに、こうして一緒に曲をやる日が来るとは思ってもみなかったよなあ、と。

 

  フラワーカンパニーズがデビューした1995年は、渋谷系全盛期だった。で、ORIGINAL LOVEは、そのトップを走る存在だった。って、ご本人的にはそう扱われることに対して、当時はいろいろ思うところはあっただろうけど、引いた視点で見たらそうだったのは事実だと思う。

  しかもORIGINAL LOVEは、その、当時の渋谷系の人気ミュージシャンたちの中でも、実力と人気が伴っているという意味でも、セールスと評価が両立しているという意味でも、かっこよくてオシャレでイメージがとてもいいという意味でも、一部のとんがった音楽ファンだけでなく一般層まで人気が広まっているという意味でも、突出した存在だった、と言っていいと思う。

  その、渋谷系とは一切関係ない、ライブハウス・シーンから這い上がって来てデビューした、コテコテに泥くさいバンドがフラワーカンパニーズだったわけです。

  彼らもまさか渋谷系に混じりたいとかは思ってなかっただろうし、そもそもそのへんのアーティストたちを好きだという話も当時きいたことなかったが、圭介にとっての唯一の例外がORIGINAL LOVEだったんだなあ、と。たぶん、歌がバケモン並みにうまいのと、ブルース・フィーリングの色濃いところが、圭介の好みにはまったんだと思う。

  でも、好きで聴いてはいたけど、そんな状況だったので当時は接点ができることなどなかったし、その後の長い活動の中でも、どこでもリンクせずに来たのが、まさか今になって共演できる日が来るとは。

  ということで、前述の圭介の言葉が出たんだろうし、観ている俺も感慨深い気持ちになったんだなあ、という話だったのでした。

 

  昔、別のミュージシャンでも、これに近い感慨を覚えたことがある。

  O.P.KINGだ。2003年、奥田民生YO-KING、はること大木温之佐藤シンイチロウが結成した期間限定バンド。当時YO-KING真心ブラザーズは活動休止中だったし、はるとシンちゃんのTheピーズは前年に活動再開したばかりだった。

  で、これはご本人たちの意識の話ではなくて、僕個人の感じ方なんだけど、1990年頃のバンド・ブーム当時、奥田民生YO-KING&Theピーズって両極にいるなあ、いちばん遠いよなあ、という印象を持っていたのだった。

  「バンド・ブームの寵児」がユニコーンで、「バンド・ブームのはぐれ者」がTheピーズ真心ブラザーズ

  ちゃんとブームにのっかって人気者になってから、そのポジションを活用して好き放題かつ型破りな活動をしつつ、でもその「ブームに求められるもの」にも応えていたユニコーン

  バンド・ブームのまっただ中、アルバム2枚同時発売という当時ありえなかった形でデビューしたと思ったら、その直後にドラムがやめてしばらく活動が止まって、再開したら新メンバーのウガンダはドラムを叩いたことのなかった素人で、それ以降もバンド・ブームに背を向けた、アンチ・メジャーな活動を選んで行ったTheピーズ

  バンド・ブームへのカウンター的なフォーク・デュオというスタイルで現れ、「きいてる奴らがバカだから」とか「龍巻のピー」なんていう、バンド・ブームを皮肉った歌を歌っていた真心ブラザーズ

  どうでしょう。遠い感じがするでしょう。将来一緒にバンドやることになるとは思わないでしょう。ユニコーンと真心は同じ事務所では? と思われるかもしれないが、真心はデビュー当時は事務所なかったし。SMA(当時はまだCSAか)に入ったのは、確かセカンド・アルバム『勝訴』か、サード・アルバム『あさっての方向』の頃なんじゃないかと思う。で、入ったあとも、ロッテンハッツと一緒のイベントに出たりはしていたけど、ユニコーンやOTまわりと接点ができたのは、数年経ってからだし。

  という話を、地球三兄弟の時のインタビューで、OT・YO-KING桜井秀俊にしたら、「べつにそんな遠いとか思ってなかったわ」って言われましたが。

 

  書いていて思い出したけど、今、フラカンBRAHMANと接点あるのも、同じように「遠くにいたのに今は近い」感じ、ありますね。90年代後半のAIR JAM勢と同じ時代に活動していた頃は、まるっきり接点なかったし。というか、そのブームに負けていったバンドだったし。

 

「だからなんだ」と言われると、「いいえなんでもありません」としか答えようのない話なんだけど、ついしみじみしたもんで、なんか書いておこうと思ったのでした。

仕事場がほしい

  仕事場がほしい。

  という思いに、ここ数ヵ月、かられ続けている。

  理性的に考えれば、まったく必要ないことはわかっている。純粋に仕事をするためだけの部屋が自宅にあるし。その部屋、PC2台、ターンテーブルCDJ、スピーカー、レコード、CD、本などで埋まっていて、10代の頃の自分が見たら狂喜するだろうなあと思うような「俺の城」状態だし。

  で、場所もまったく不便ではない。こんなに税金取られるんなら、もっと経費を使った方がいいから部屋を借りる、というのならわかるが、あいにくそこまで稼いでいるわけでもない。

 

  要は「事務所がある」という状態に憧れているだけなのだった。

  同じ会社から独立した、アート・ディレクターの後輩……いや、社歴的には後輩だけど、フリーとしては先輩か、まあとにかく、彼女は、フリーの同業者たちと3人で事務所を借りている。

  曰く、自分は本当にそうしてよかったと思っている、お勧めする、と。フリーになって最初の2年くらいは、自宅でひとりで仕事をしていたんだけど、気がつくと3日誰ともしゃべっていませんでした、みたいなことになっていたりして、まあ、煮詰まる、と。

  という意味でも、仕事場に誰かいる方がいいし、作ってみたデザインをパッと誰かに見てもらって「どうかなあこれ?」と意見をきいたりできるのが、とても助かる、と。

  でまた、格安のいい物件を見つけており、月々の負担はほんの数万円だという。

 

  そうか。いいなあ。と思うが、自分の場合、逆で、誰かとシェアすると、却って煮詰まりそうな気もする。仕事場に通う、という行為が気持ちが切り替わっていい、自宅だと気が散ったりダラダラしたりしてしまうけど、通えば「さあ働くぞ」というモードになれる、というのはありそうだけど、逆に「洗濯機を回しながら仕事」みたいなことができなくなる、という不便さもある。

  あと、ライターの場合、よっぽど稼いでないと仕事場なんて持ってはいけない気がする、というのが、いちばん大きいか。その月の収入はその月が終わってみないとわからない、めちゃめちゃ浮き草稼業なので。

 

  しかし。知人のライターである、関西在住・ABCラジオ『よなよな』木曜パーソナリティーの鈴木淳史、どうやら仕事場があるようなのだ。

  ラジオを聴いていると「そのあとちょっと仕事場寄ってさ」などと、ちょいちょい「仕事場」という言葉が出て来る。おい。マジか。「ラジオを始めて以来収入が右肩下がり」みたいなことをよく言っているくせに、仕事場の家賃、払えてるのか。

  というか、そもそもきみ、芦屋の実家でお母さんとふたり暮らしじゃないか。仕事場を借りる前に家を借りろよ。大きなお世話か、そんなことは。

 

  でも不思議だったので、会った時に訊いてみた。

  仕事場、自分で借りているわけではないという。彼の言う「仕事場」とは、以前に契約だか業務委託だかで常勤で仕事をしていた、某出版社の大阪支社の編集部だという。契約はとうに終わっているんだけど、今でもよく出入りしては、机とPCを借りて原稿仕事をしているという。

 

  ええと、その契約は、いつ終わったの?

「もう6年くらい経ちますかね」

  ありえん。

「いや、急に契約が終わったんで、申し訳ないと思ってくれたみたいです。編集部のカギ返せとか言われへんし」

  いやいやいや、でもそれ、僕に置き換えると、やめて3年が経つ今でも、ロッキング・オン社に頻繁に通って机を借りて原稿書いてる、っていうことになるわけでしょ?

  ないわあ。向こう的にないのは間違いないけど、こっち的にもないわあ。

  と、普段からいちいち驚かされることが多い鈴木淳史さんなのだが、それらの「驚き」の中の最たるものだったかもしれません、これ。

 

  書いていて思い出した。

  人が仕事場を借りる時に、保証人になったことはある。まだ僕が会社員だった、4年くらい前のことです。

  親しくさせていただいている作家さん、というか、世間的にも名前が知られていて、誰が見たって高収入であろうことはわかりきっている方なんだけど、それでも、いつも部屋を借りるのに苦労するという。

  マネージメントを委託している会社とかは、保証人になってくれないんですか? なってくれないそうだ。彼の保証人になると、同じ事務所の若くて売れてない人に保証人を頼まれた時も、引き受けないわけにいかなくなる、とか、そういう理由なのだろうな、とお察しします。

  いつもお世話になっている方だし、そもそも保証人になったことで迷惑をこうむることになる危険性など、どう考えてもないので、ハンコを押した。その1年後くらいに、彼は広い家に引っ越して、その仕事場は引き払ったのだが。

  ちなみに、3年前、会社をやめてフリーになることを報告した時、最初に彼がおっしゃった言葉は「そうかあ、じゃあもう保証人になってもらえないんだなあ」でした。

『宮本から君へ』に懺悔しておきます

  エレファントカシマシの新曲「Easy Go」が、4月6日(金)からテレビ東京系で始まった池松壮亮主演のドラマ『宮本から君へ』の主題歌として書き下ろされたことについて、rockinon. comに短いブログを書きました。

  放送の翌日、4月7日(土)にアップされました。

  こちらです。

https://rockinon.com/news/detail/174965

 

  みなさんに読んでいただけているようで、今(4月9日19時くらい)見たら人気記事の1位になっていた。すごい。さすがエレファントカシマシというか、さすが『宮本から君へ』というか。

 

  で。このブログ、当然、rockinon. comからご依頼をいただいて書いたのですね。

  この原作である新井英樹のマンガ『宮本から君へ』が週刊モーニングに連載されているのを読んでいた頃、イコール、エレファントカシマシの『エレファントカシマシ5』とか『東京の空』とかを聴いていた頃のことについて、主に書いたんだけど、実はもうひとつ書きたいことがあった。が、書いてみたら長すぎたので削った。

  ただし。こうしていっぱい読まれれば読まれるほど、これ、ちゃんとどこかで言っておかないとずるいよなあ、万一あとから誰かにバラされたりしたらイヤだなあ、と気になってきたので、ここに書いておこうと。

 

  何について。『宮本から君へ』に対して、懺悔しておきたい、ということについてです。

  私、連載当時、ディスってました、このマンガのことを。

 

  いや、メディアに批判を書いたりまではしなかったけど、『宮本から君へ』に対して、否定的な気持ちだったのだ。

  憶えてる方も多いと思うが、この作品、連載が始まった頃は、すっごい賛否両論あったのです。

  特に、連載スタートの翌年、1991年あたりのロッキング・オン社界隈では、ほぼ全員が否定派だった。

  それ、僕が入社した頃なんだけど、当時、僕を含め新入社員が一気に6人入るという会社始まって以来の増員があった、それで総勢20人くらいになった株式会社ロッキング・オンには、ほぼすべての少年・青年マンガ雑誌が、常時揃っていた。

  社員みんなマンガ好きで、マンガ雑誌を入れておく本棚の場所が決まっていて、それぞれ買って来て読み終わるとそこに入れる、それを他の人が持って行って読む、というふうに、回し読みする習慣があったのでした。

  それが昂じて、洋楽ロッキング・オンのカルチャーコーナーに、社員が書いたマンガ評や、マンガについて行った対談が、よく載ったりもしていた。

  私も書いた記憶あります。榎本俊二の『ゴールデンラッキー』とかについて。

 

  という頃。誰が見てもあきらかにエレカシ宮本浩次から主人公の名前をいただいた、『宮本から君へ』が始まった。

  それが、不器用で熱くてまっすぐな文具メーカーの新入社員が、ままならぬ仕事やままならぬ恋愛に立ち向かっていく、という内容だったもんで、「何この暑苦しいマンガ」「負けるってわかっててそれでもやるんだ、みたいなヒロイズムすげえイヤ」「こんなもんに我らが宮本の名前を使うんじゃねえよ」みたいな感じで、みんなブーブー言っていたのでした。

 

  僕もそうでした、正直。今になると「自分のいちばんみっともないところを見せられてるみたいでイヤ」「でも俺はここまでみっともなくがんばれないからさらにイヤ」みたいな気持ちで、抵抗があったんだと思う。

  要は、リアルに感じたんだと思うが、にしても刺激が強すぎて……みたいなことだったのではないでしょうか。

  思い出した。僕はそんなことを飲み屋でしゃべっているくらいだったが、当時、ロッキング・オンに、某上司と某先輩による「このマンガは許せん!」みたいな対談が載った。それくらいのものだったわけです。

 

  ただし。ここからは、その上司や先輩たちはどうだったかは知らないが、少なくとも僕に関しては、その後、自分の中で新井英樹の評価を、手のひら返ししたのだった。誰にもなんにも言わずに。

  『宮本から君へ』に関しては、最後までそんな乗り切れない気持ちだったんだけど、その次に週刊ビックコミックスピリッツで始まった『愛しのアイリーン』を読んで「あれ? おもしろくない?」となり、その次の週刊ヤングサンデーの『ザ・ワールド・イズ・マイン』で「うわ、これ傑作じゃん! マンガ史に残るとんでもねえやつじゃん!」と愕然とした。それ以降の『キーチ!!』等も然りで、すばらしい。

  で、困ったことに、『宮本から君へ』とそれ以降で作風がガラッと変わったのかというと、そういうわけではなかったのだ。より過激になったり、より社会的になったりはしたものの、作品のベースにあるものは地続きだった。

  だから『宮本から君へ』はダメだけどそこからあとの作品はすばらしい、みたいな納得のしかたもできなくて、「新井英樹をディスっていた過去」を、自分の中で、なかったことにしていたのでした。

  今回のこのドラマ化がなければ、こうして今さらカミングアウトする必要もなかったわけですが、まあ、『宮本から君へ』リアルタイムで読んでたよ、当時エレカシも聴いてたよ、と、歴史の証人ぶったことを書いておいて、その「ディスってた」方を言わないのは、ずるいかなあと。

 

  以上、すっきりするために書きました。

  そういえば『愛しのアイリーン』も、吉田恵輔監督で映画になることが、ちょっと前に発表されましたよね。楽しみです。最近も『犬猿』おもしろかったし。

 

  あと、新井英樹作品で「いちばん映画化してほしい」「でもきっと無理」なのは、おそらく満場一致で『ザ・ワールド・イズ・マイン』だと思うが、2年前、「これ絶対『ワールド・イズ・マイン』に影響受けてるな」という、超おもしろい映画に出会った。『ディストラクション・ベイビーズ』という、ナンバーガールの曲からタイトルをいただいて、音楽を向井秀徳に依頼した作品だった。

  その監督の真利子哲也が撮っているのが、ドラマ『宮本から君へ』です。何か、いろいろ腑に落ちます。

自分の写真の話

  仕事をした時に「写真を送ってください」と言われることがある。そのたびに、軽く困る。

  書いた原稿を掲載する、もしくはアップする際に、書いた人の写真も付けるので提供してください、ということだ。今「アップする」と書いたが、雑誌とかの紙媒体よりも、ウェブの方が、そう言われることが多い。

  自分の写真を、積極的に出したい方ではないのだと思う。と、意識したことはなかったが、たとえばライターとかラジオのパーソナリティーとかで、アーティストの写真を撮ってツイッターとかにアップする時、自分も一緒に映る人、多いでしょ。自分は決してそうしない、ということに、今、書きながら気がついて、「あ、そうなのか、俺」と自覚しました。

  そもそも写真を撮るのは好きな方だと思うが、撮られるのは苦手だ。旅先でも、景色や他の人は撮るけど、自撮りしたり、誰かに頼んで撮ってもらったりしたこと、ない。なので、スマホに自分の写真、全然入っていない。

 

  かといって「写真出すのNGにしてるんです」とか言うのは、自意識過剰みたいで恥ずかしい。同じ理由で、知り合いに、スマホで撮られてそれをインスタに上げられたりすることにも、一切抵抗しないことにしている。

  自分の見た目なんてとうにあきらめてます、どう写ろうが、それが外にどう出ようが、どうでもようございます。という、淡々としたスタンスでいたいと思っているんだな、俺は。ということにも、今、気がつきました。書いてみると気がつくことっていろいろありますね。

 

  さて。

  じゃあいいじゃねえか。写真くれって言われたら「はい」って出せば。

  という話であって、現にそうしているのだが。どれもひどいのです、その自分の写真が。

  スマホで自撮りするか、そのへんにいる人に撮ってもらうかのどっちか、ということになるのだが、いくらなんでもこれはちょっとひどすぎるだろ、人前に出しちゃいけないやつだろ、と自分でも思うような仕上がりになってしまうのだった。

  前に、Theピーズ日本武道館特設サイトにコメントを出した時も、写真を求められたのだが、アップされた瞬間に、それを見たピーズ好きの知人に、ひとこと「写真!」とだけツイートされたほどです。自分でも、確かにつっこむよなあこれ見たら、と思う。

 

  で。この問題を解決するには、ふたつの方法がある。

 

①腹をくくってプロのカメラマンに撮ってもらう。

  仕事柄、一緒に仕事をしたことのあるカメラマンは多い。昔なじみの人なら、ちゃんとギャラを払えば、撮ってくれると思う。が、どうでしょう。恥ずかしくないですか、それを言い出すの。「何こいつ。タレント気取り?」て思われるでしょ。「兵庫のくせに」と腹の中で笑われるでしょう。

  あと、同業者とかで、そんな感じでカメラマンにちゃんと撮ってもらった写真を使っている人、けっこういるけど、そのうちの多くが、斜め左からの角度だったり、横顔だったり、ばしっと陰影入っていたりして、ちょっとでもよく写ろうという気合いが見えまくっていて、それにこっちが恥ずかしくなってしまうのも、躊躇する大きな要因なのだった。自分がそう思われるのは、ちょっと耐えられない。役者とかミュージシャンならわかるけど。

 

②似顔絵を使う。

  これ、ツイッターのアイコンとかでポピュラーな方法ではある。そうだ、俺、昔担当していた松尾スズキ×河井克夫ROCKIN’ON JAPANの連載マンガ『ニャ夢ウェイ』によく登場させられてた。似てた。

  あれ使おうかな、と思ったが、かつての勤め先の出版物に載ったものを勝手に使うのは、道義上まずい。かと言って許可を取るのも難しい、というか間違いなくめんどくさがられるであろうことが、立場を逆にして考えるとわかる。

  と思っていたら、DI:GA ONLINEでライブレポ連載が始まるにあたって、編集部から「似顔絵イラスト載せません? 河井克夫さんにお願いしましょうよ」という提案があった。描いていただいた。連載に使った。で、今はツイッターのアイコン等にもそれを使わせていただいているのだが(厳密に言うとDI:GA ONLINEがギャラを払ったので僕が勝手に使うのはちょっとアレなのだが)、これはこれで新しい問題があるのだった。

  似すぎているのです。「なんかこいつ腹立つ、いい歳して無邪気なフリして調子こいてて」ということまでが読み取れてしまうのです、その絵から。シンプルなタッチなのに、すごいのです、情報量が。

  さすが河井克夫、というか、おそるべし河井克夫。というようなわけで、今後、写真を頼まれた時、すべてこの絵を出していくっていうのもなあ……と、迷ったまんまで現在に至る。

 

  そんなある日。というか、3月18日。

  さいたまスーパーアリーナエレファントカシマシ×スピッツ×Mr.Childrenの超豪華イベントを、ABCラジオ『よなよな』火曜日コンビ、ライター/インタビュアー鈴木淳史&雑誌編集者原偉大と、並びの席で観た。で、開演前、隣でスマホをいじっている鈴木淳史にふと目をやって、愕然とした。

  待受画面を、自分のアップの写真にしているのだ。

  いや、自分大好きなタチだろうと思ってはいたが、ここまでか? こんなに億面もなくそれを出すか? 昔、松尾スズキは「自分好きさ」のことを「自分三時さ(オヤツのような愛しさ)」と表現したが、まさにそれ。鈴木三時淳史。

  思わず「マジか!」と、声を出してしまった。

「えっ、何がですか?」

「いや、あの、自分の写真を待受にしてんの?」

「え、そうですけど」

  と、彼が答えた次の瞬間、その隣の原偉大が「でしょ? 狂ってますよね!」と同意してきた。「えっ、変? そんなん全然気にしてなかったわ。なら言うてよお、原くん」と、鈴木淳史

  しかも。最近彼がよく使っているその写真、昨年の夏、テレビのサマソニ前アオリ特番に呼ばれた時、出る前に局のヘアメイクさんが髪も肌もしっかりいい具合にしてくれたので、「チャンス! 今や!」と、自撮りしたものだという。

  そんなに気になるの? 気になるという。普段、自分の写っている写真の大半が気に入らないという。僕なんかが彼を気軽に撮って気軽にアップする時も、本当はアップ前にチェックしたくてたまらないんだけど、「なんだこいつ」と思われるのがイヤなのでがまんしているという。

  写りによっては、アゴがシャクれてるように見えるところと、「前髪がおさまらない」ところのふたつが、そこまでナーバスになるポイントだそうだ。何? 「前髪がおさまらない」って。天パで髪が細くて毛が密集していないせいでハゲているように見える、だからそう見えないように前髪を整えるのが一苦労なのだ、という。

  試しに、前髪を上げて額を出してもらって見てみたのだが、確かに、デコは広いものの、ハゲているというほどではない。オールバックにしても成立するレベルを、まだ保っている。その割に、前髪を下ろすと確かにちょっとアレな感じになりがちではある。そうかあ。

 

  とにかく。「自分三時さ」をスマホの待受に刻みつける、こんな男も世の中にはいるのだということを知って、カメラマンに「写真撮って」って頼むくらい、それに比べればどうってことないかなあ、という気にはなっているのだった。

  じゃあ、最近会ったカメラマンに……誰に会ったっけ。大森克己。笠井爾示。平間至。橋本塁。岸田哲平。うーん……と、やはり、なってしまうのだった。

 

  ここまで書いてTLを見たら、鈴木淳史がこうツイートしていた。

 

  前髪がおさまらない。

水道橋博士『藝人春秋2』について

  2017年11月30日に出た本なので、今頃何か書くのはだいぶ遅いのですが。

 

藝人春秋2 上 ハカセより愛をこめて

http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163907109

 

藝人春秋2 下 死ぬのは奴らだ

http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163907628

 

  ひとつひとつの言葉の選び方、句読点の打ち方、一文一文に込められたネタや引用など、細部までもうとにかく徹底的に詰められた、異様な完成度をの文章を書く、水道橋博士とはもともとそういう人であって(これすげえ時間かかってるだろうな、一度書いてから推敲しまくるんだろうな、といつも思う)、そのことについては昔、書評を書いたりもしたし、読者としても編集者としても(昔、浅草キッドの単行本を作ったことがあるのです)把握しているつもりなので、今さら驚かない。

 

  ただ、下巻にはびっくりした。

  やしきたかじんの章、『橋下徹と黒幕』の章、石原慎太郎VS三浦雄一郎の章。昔、単行本の帯とかで、浅草キッドを「ルポライター芸人」と形容したことがあるが、そのレベルではない。これ、完全にノンフィクション作家の仕事だと思う、博士が読者として傾倒してきた人々と同じ次元の。

  しかも、取材対象に興味を持ったので迫っていく、というのではなく、自分が言わば登場人物として巻き込まれた、だから書くしかなかった、というのがさらにすごい。というか、怖い。べつに本人は巻き込まれたくて巻き込まれたわけではないだろうが、そのことによって、結果的に「ノンフィクション作家もやっている芸人」にしか書けないものになっているし。

  『お笑い男の星座 芸能死闘編』(文春文庫)をお持ちの方は、その中の『爆笑問題問題』と、改めて読み比べてみることをお勧めする。「自分も登場人物のひとりであるノンフィクションを書く」という構造は同じだが、文章といい、その文章に至るまでの調査やファクト・チェックといい、今回の方がはるかにハードコアだ。水道橋博士がこの十数年で何を経験し、どんなことを感じ、考え、行動に移して来たか、その結果どうなったか、ということを表していると思う。

 

  それから、下巻の最後に書かれた、水道橋博士自身の病気のこと。

  なぜ敢えてこれを書いたかについては、本書の中で記述されているが、勝手にひとつ補足させてもらうなら、書かないとフェアじゃないと思ったから、書いたのではないか。人のことをいろいろ書いておきながら、その書いている時期に自身に起きた、触れられたくないところについては何も触れない、というのはずるい、と感じたのではないか。理屈で考えれば、別にずるいことでもなんでもない。でも生理的にそう感じたからそうしたのではないか。

  僕はそんなふうに受け取りました。