兵庫慎司のブログ

音楽などのライター、兵庫慎司のブログです。

TBS『MUSIC HERO』に出ました

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   2019年の仕事は、1月1日に1本、1月2日に1本、で始まった。

  この日に働いた、ということではなく、年内に終わっていた仕事がこの日に世に出た、という意味です。

  まず、SPICEに書いた12月24日大阪城ホール東京スカパラダイスオーケストラ(ゲストで斎藤宏介・TOSHI-LOW峯田和伸宮本浩次が出演)のライブレポ。本番の翌々日に納品したテキストが、1月1日にアップされた。

  こちらです。http://spice.eplus.jp/articles/222784

  で。1月2日。23:25から放送されたTBSの音楽番組『MUSIC HERO』。番組の前半があいみょん、後半が岡崎体育の特集で、後半で岡崎体育の魅力について語る数人の中のひとりとして出演した。

  収録では、ほぼ黙ってうなずいていただけだった上に、たまにしゃべれば地獄の滑舌&地獄の早口なので(石原さとみに「え? え?」って聞き返されたほどです。カットされてたけど)、相当みっともないことになっているだろう、と大変に憂鬱だったが、とてもうまい具合に編集されていて、心配したほど悲惨ではなかった。

  僕以外のみなさんは、おもしろいことをもっといっぱいしゃべっていたんだけど、かなり編集されてああなっていた、でも僕だけはほぼそのままだった、と言っていい。削っちゃうと、ほんとにただ座ってるだけの謎の奴になってしまう、という理由だと思いますが、なんにせよ、ちょっとホッとしました。

 

  さすが地上波というか、友人知人親類縁者などからラインやメールがいくつも届いた。知人以外も、「兵庫が出てる!」と多くの方がツイートをとばしていた。クソミソに書かれていたりするものが思った以上になかったので、それもちょっと安心したが(僕がそういうのを発見できていないだけかもしれないが)、ただ、「ここはツッコミ入れるとこでは?」と自分でも思うポイントを、みなさんスルーしておられるのが気になった。

 

  これです。 

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  「岡崎体育のライブにも足しげく通う音楽ライター」と、僕のことを紹介するナレーションの時に使われた写真。

  何これ。何やってんの。いねえよ、こんな音楽ライター。

  昔、インディードのCMで、ステージのソデでPC開けて原稿を書いてる音楽ライターの女の子を見て、「いねえよこんな奴、いたらローディーに蹴られるよ」と思ったものだが、それに匹敵する「いねえよ」レベルである。

  2017年のロック・イン・ジャパン・フェス、SOUND OF FORESTの後方の芝生。雑誌ロッキング・オン・ジャパンのこのフェスの特集の、ライブ写真に付く短いテキストを書く仕事で、ちょうどポメラを買ったばかりで使いたくて、客席エリア後方でこんな形になってちょっと書いてみたのだが、メモる程度だったらポメラよりスマホの方が全然便利だとわかって、すぐやめた。

  が、やめる前に、通りかかったライブカメラマン岸田哲平に発見されて、撮られたのだった。

 

  で。番組の収録の翌日、ディレクターからメールが届いた。

 「兵庫さんがライブを観てる写真を送ってください」

  ないよそんなの。と困ったものの、一応探したら、この写真が出て来たので、「こんなのしかないんですが」と送った。返信がなかったので、やっぱボツか、と思っていたら、あのような形で使われたのでした。

 

  以上、誰に対してなんのためなのか自分でもわかりませんが、言い訳でした。

  2019年もどうぞよろしくお願いいたします。

穏やかに。。。

  満員電車がホームに着いて人が乗り降りしているのに、ドア前に立ったままでいったんホームに降りて待とうとしない奴に出くわすたびに、体当りして車内に押し出したくなる。ライブハウスのバーカウンターで右に並んで順番を待っていたら、それに気づかず左から割り込んできてドリンクバッジを出す奴には「こらあ!」と叫びそうになるし、そいつにドリンクを出す店員には「出すなあ! 注意せい!!」とダブルでわめきたくなる。

  いや、「わめきたくなる」を超えて「わめいてしまった」こともあります。2018年のフジロック、混み合っているレッドマーキーでイスを畳まずに観ている人たちにプチンときて、曲間になったところで「混んでるよ! イスじゃま! たたんで!」とわめきちらしてしまった。みんな立ったけど、「マナー悪い奴に言うたった!」みたいな爽快感はゼロ。「うわあ、絵に描いたような『キレる中年』じゃん、SPA! で特集されるやつじゃん、俺」というどんよりした気持ちを、その日いっぱいひきずることになりました。

 

  かように、あきらかに、そういうことにいちいちカチンとくるようになってきている、ここ数年で。そのことによって「正しく生きる俺」みたいな満足感を得ることができているかというと、もちろんそんなわけはない。全然逆、心が荒れる一方です。

 「穏やかに。。。」

  有吉弘行ツイッターのプロフィールには、そう書かれている。

  “Keep calm and music on”

  Caravanのアコースティック・ギターには、こんな言葉が貼られている(前にこのコピーでポスターも作っていた)。

  もんのすごいわかる。ああ、穏やかでいたい。落ち着いていたい。そんな些細な不愉快は、気にならないメンタルになりたい。だからゆってぃも「ちっちゃいことは気にするな、それワカチコワカチコ」を編み出したのだろう。違うか。あれは「頭にくることを気にするな」ではなくて、「傷つけられることを気にするな」というネタだから。

 

  なので、なんでこんなに自分がこんなことになっているのか、改めて考えてみた。

 

①加齢。

  シンプルだが絶対ある。しかもふたつの意味で。

  ひとつめは、怒りに限らず、歳をとると感情を抑えられなくなるということ。NHKの『チコちゃんに叱られる』で、「なんでおじさんはオヤジギャグを言うの?」という問いと、別の週の「なんで歳をとると涙もろくなるの?」という問いの、どちらもが「がまんが利かなくなる」という答えだった時は、「やっぱり」と思いました。

  で、もうひとつ。加齢によって、キレたいけど相手が怖いからキレられない、というビビリが薄まった、というのもたぶんある。僕は身長182cmで体重76キロ。でかくて不機嫌な50のおっさん。怖いでしょ、だいたいの人にとっては。さらに、自分の年齢だと、普段接する相手が、年上よりも年下の方が圧倒的に多い。ということが意識の中に織り込まれていて、「怖いからがまん」「目上だからがまん」というブレーキが、利きにくくなっているのではないか。

 

②ネット社会、SNS社会になったから。

  以前ならムカッときてもその気持ちを発する手段がなかったけど、今はいくらでもある、だから黙ってがまんする必要がなくなっている、ということです。

   僕の書いたコラムの内容について「俺は違う」という言葉を飛ばしてきた人に関して、「これがネット普及前で、僕のテキストが雑誌に載っていたとしたら、この人はハガキを買ってきて『俺は違う』って書いて編集部に送ったか? しないでしょ、面倒だから」というような話を、以前このブログに書いたのだが、そういうことです。簡単に世に発表できることに慣れたから、昔だったらほっとけばそのまま消えた程度のむかつきをスルーできないマインドになった、という。

 

③世の中全体が厳しい方向へ進んでいるのにつられて、自分もそうなっている。

  というのが、いちばん大きいんじゃないかと思う。小泉政権になる前後くらいから、というのが僕のなんとなくの体感なのだが、飲酒運転、駐車違反、違法駐輪、未成年者の飲酒・喫煙、などが厳しく摘発されるようになっていった。喫煙者にとって暮らしづらい世の中になり始めたのもこの頃だ。

  時期を同じくして、有名人が薬物で逮捕された、とか、不倫とか二股とかに対しても、いっそう厳しく叩かれるようになった。このへんは、誰かを叩くのに最適なインターネットというものが普及して、それにメディアがのっかっているのも大きいか。

  とにかく、というような「よくないとされること」のすべてに対して、昔はもっとゆるかったけど、今の世の中はとても厳しい、だから自分も「よくないことはスルーしない!」というマインドになっている、よっていちいちイライラする、ということです。

 

  で。もっとも憂鬱なのは、ここまでわかっていて、なんでそれでも治らないかなあ、という問題です。なので、それを治していくことを、2019年の目標のひとつにします。とにかく、このままでは暮らしづらいので。

  フィリピンのセブあたりでよく使われる、「ヒーナイヒーナイ」という言葉があります。ビサヤ語。「ゆっくり、のんびり」みたいな意味です。最近カチンとくるたびに、心の中で「ワカチコワカチコ」と唱えていたのですが、2019年は「ヒーナイヒーナイ」に変えようと思います。

なぜ「袋いりません」は無視されるのか

  5回に4回は無視される。スーパーマーケットのレジで「袋いりません」と言っても。

  そう伝えても、ほぼ確実に、買い物カゴにレジ袋を入れられてしまう。オオゼキ、東急ストア、サミット、ライフ、どの店でもそうだ、僕の場合。

 

  相手が聞き取れていないからではない。己が地獄の滑舌であることは自覚しているので、「袋、いりません。」と、80年代のコピーライターブームのように、文中に句読点を入れるぐらいのニュアンスで、ゆっくりはっきりくっきりと発語するようにしている。そうすると「はい、わかりました」とか「ご協力ありがとうございます」と、返事が返ってくる。にもかかわらず、「2,548円です」という言葉と共に、レジ袋をカゴにねじこまれてしまうのだった。やむなく声を張り気味にして「袋、いりません!」と言い直さざるを得なくなる。

  「袋ご不要の場合はカゴにこれをお入れください」というカードがレジの手前に吊してあるスーパーであっても、まったく油断できない。カゴをレジに置いたら、「ご協力ありがとうございます!」とそのカードを取り上げた店員が、次のアクションでレジ袋をカゴに放り込んでくることだってあるのだから。あまりの手際のよさに「袋いりません」と言い直すタイミングを逃してしまった、この時は。

 

  この件で困るのが、「バカ店員どもめ!」などと、当事者たちを責める気には全然なれない、ということだ。心は無のまま自動的に手が動く、くらいの状態にならないと、あのレジの作業をスピーディーにこなすのは不可能なんだろう、と思うので。

  僕が「異常に『レジ袋いらない』を忘れられる男」であると考えるよりも、ほとんどのお客が日々僕と同じように「レジ袋いらない」を忘れられている、と考えた方が常識的だろう。つまり店員たちは、1日に何度も「いや、袋いりませんて!」とか「袋いらないって言ったよね?」とか客に言われていて、それでも直らない、ということになる。ということは、店員の能力の問題なのではなくて、この制度設定自体に無理がある、と考える方が、正しくはないだろうか。

  ①客に「レジ袋いらない」と言われる②精算作業をする③金額を伝えてカゴにレジ袋をつっこむ、という流れなわけだが、たとえばレジ袋なしがデフォルトの店で、①客に「袋ください」と言われる②「はい」と袋をカゴにつっこむ、という流れならミスりませんよね? だから、客に言われてそれに応えるまでの間に②の精算作業がはさまるからその間に忘れるのだということと、そもそも「客に言われて自分の動作をひとつ足す」のは簡単でも「客に言われて自分の動作をひとつ引く」のは、行動生理学的に難しいのではないか、ということが推測できる。

 

  要は「レジ袋無料だけど環境問題とか気にしないといけないし、できれば『いらない』って言ってください」というファジーなオペレーションにすること自体に問題があるのではないか、という話でした。さっさとみんな、OKストアや西友のように「レジ袋有料」というルールにしてほしい、と切に願う。もしくは無料でも「くれと言われないと出さない」にするか。

 

  書いていて思い出した。飲食店で「領収書ください」と頼んで忘れられることはまずないが、書店だとけっこうある。あれも、「領収書くれと言われる」と「領収書を切る」の間に、おカネを受け取ってレジに持って行ったり本にカバーをかけたり袋に入れたりする作業がはさまるからだと思う。

  あと、書店で「いらっしゃいませ」「カバーいりません」「はい、ありがとうございます、カバーおかけしますか?」と言われたこともあります。不条理コントのようなシュールな気持ちになりました。

 

  もうひとつ思い出した。喫茶ルノアール、コーヒーを頼んで「砂糖とミルクいりません」と言っても絶対に持って来るので、これはもう「客にそう言われても無視すべし」というオペレーションになっているんだな、と判断したのだが、それから3年くらい経ったある日、初めてコーヒーが砂糖とミルクなしで出てきて「え、違ったの?」とびっくりしたことがあります。

日本の俳優、男前

  この間、リアルサウンド映画部の依頼で、NHK連続テレビ小説まんぷく』に岡崎体育が出演したことについて、コラムのようなものを書いた。その中で、岡崎体育が演じたチャーリー・タナカ、あの役をほかの俳優がやるとしたら誰が近いか、という話を入れようとして、駒木根隆介と加藤諒のふたりはパッと浮かんだが、それ以上思いつかなかったので、「俳優 男 20代 30代」で検索をかけたり、いろんな事務所の所属俳優一覧を見たりして、あれこれ探した。で、思い知った。

 

  日本の俳優って男前ばっかりなのな。

 

  今さら気づくことか。と自分でも思うが、でも改めてそう実感したのだった。

  売れている役者はもちろん、全然知らない人まで含めてそう、おしなべて男前。なのでなかなか行き当たらない、チャーリー・タナカを演じてもおかしくないフォルムを持った俳優に。

  たとえば他のジャンル、お笑い芸人やミュージシャンと比べると、はっきりと差がある。いや、アイドルなら「男前であることが職業だから」とも言えるが、俳優ってアイドルよりも芸人やミュージシャン寄りの、「特殊技術を持って、それで食っている人たち」に近い職種では? と、僕は思っていたので。

 

  延々と「チャーリー・タナカ、あり」な俳優を探しながら、だから逆に俳優ではない岡崎体育にオファーが来たりするのかもな、もっと言うと、ピエール瀧や浜野謙太が、当初は本人そんな気なかったのに、あまりにもオファーが続くから、だんだん本職の俳優みたいになっていったのも、同じ理由だったりするのかな、と、思ったりもした。

  役者仕事の多い芸人さんもそうかもしれない。塚地武雅とか。今野浩喜とか。コントや漫才でちゃんと世に出ることができているレベルの芸人なら、だいたいの人は芝居も普通にできるものだ(と、以前マキタスポーツにインタビューした時おっしゃっていた)という理由以外に、本業の俳優の深刻な「男前以外不足」があるから、あんなに仕事が取れるのではないか。小劇場出身の役者(大人計画のみなさんとか)だけでは足りない、他ジャンルからひっぱってこないといけない、という。

  もちろんそれだけではなくて、芸人にしろミュージシャンにしろ、「本業の俳優じゃなくてもいい、この人がいい」という、強い存在感なりキャラクターなりがあるからこその、オファーだとは思うが。

 

  そういえば以前、白石和彌監督にインタビューした時、「イケメンが好きじゃないんですよ」という話になったことがある。

 「韓国の映画、マ・ドンソクとかが主演で撮ったりしてるでしょ? あれ日本で誰?って言ったら、ピエール瀧ぐらいしかいないですよね。だからやっぱ、顔力がある人たちが好きなんだろうな」とおっしゃっていた。確かに白石映画のピエール瀧出演率、とても高い。一位が音尾琢真、二位がピエール瀧、ぐらいだろうか。

  で、「顔力がある人たち」が好き、イケメンが好きじゃない、というだけじゃなくて、そんなにイケメンだらけだったらリアルじゃないでしょ、現実の世の中はそんなことないから、という話でもあるのではないかと思う。

  それはわかる。実際、邦画を観ていてそう感じることもある。たとえば11月に公開になった、入江悠監督の『ギャングース』。六本木で試写を観て、そのまま家まで走って帰りたくなったくらい興奮した、それはもう大好きな映画なのだが、唯一気になったのは、主人公の3人のうち、高杉真宙が美形すぎることだった。加藤諒はバッチリ、渡辺大知もセーフだけど(髪や表情で本来のツラのかわいさをうまくごまかせていた)、彼だけは「いや、さんざんな生い立ちで年少帰りで今も地獄の最底辺生活なのに、そんなきれいな顔じゃあリアリティが!」という気持ちは、正直、よぎりました。芝居はとてもよかったんだけど。

  まあそれを言いだしたら女優もそうなんだけど。同じ『ギャングース』だったら、こんな田舎のキャバクラに、山本舞香みたいな超ハイレベルなキャバ嬢いねえよ、という話になるし。

 

  にもかかわらず、なぜ日本の俳優は、そんなに男前だらけになってしまうのか。と考えると、「男前じゃないと客を呼べる俳優に育たない」「だから各事務所が男前を集める」という、あたりまえな結論に行き着いてしまうのだった。

  でも、常日頃からいろんな芸能プロダクションが、必死に俳優を売りこんで回ったり、オーディションを受けさせたりしている中で、そんなこと一切しなかったピエール瀧やハマケンが売れっ子になる、というのが、以前からちょっと不思議だったので、その答えのひとつがこれなのかもしれないな、と、思ったりもしました。

 

  あと、以上を書くにあたり、峯田和伸の例まで入れると、話が広がりすぎてまとまらなくなるので、あえてオミットしました。

   とりあえず今は、白石和彌監督・斎藤工主演の『麻雀放浪記2020』に岡崎体育が出演、というのが、とても楽しみです。

津村記久子『ディス・イズ・ザ・デイ』に「やられた!」と思った

  津村記久子の『ディス・イズ・ザ・デイ』(朝日新聞出版)。2018年の6月末に出た小説だが、半年が経つ今でもちょいちょい読み返している。全11話の連作短編集で、1話1話が独立した話なので部分的に読み返しやすい、というのもある。サッカーに関する小説なんだけど、サッカーを全然知らなくても(僕もそうです)、ある条件を満たしている人なら、すごくおもしろく読めると思う。

 

  どういう条件か。「誰かの・何かのファンである」という条件です。この小説、リーグ戦最終節に向かうJ2の11チーム、それぞれのサポーターが主人公なのだった。1話ごとに、どのチームを応援している、どこに住んでいる誰が主人公なのかが、設定されている。大学生とか、主婦とか、OLとか、高校生とか、若いサラリーマンとか、定年後のおじさんとか。彼ら彼女らは、今どんなふうにそのチームを好きなのか。どんな事情でそのチームを応援するようになっていったのか。どんな生活をしながら、どんな人と関わりながら、そこでどんなことを考えたり感じたりしながら、そのチームを応援しているのか──。

  要は「J2のサポーター」というフィルターで、普通の人の普通の人生を描いている、ということだ。もとから「普通の人の普通の人生を描く」ことにおいて比類なき作家が津村記久子だが、その中でも最高峰の作品だと思う。つまり、誰かのファンになって、その作品や活動を追い続けたり、応援に通ったりしている人・したことのある人なら、自分に置き換えて読める、だからすっげえおもしろい、という話です。

  サポーターであること、ファンであることの、その人にとってのかけがえのなさを、小説で描こうとした。という発想自体にまず唸ったし、読んで見事にそれが成功していることを知って、さらに唸った。

 

  朝日新聞の夕刊で、この小説の連載が始まった時、「おもしろい!」と思ったのと同時に、なんか「やられた!」と思ったのを憶えている。

  僕は3年半前に会社をやめてフリーの音楽ライターになって、ライブに行く量が一気に増えて、それに伴っていろんなバンドのファン、ジャンルやバンドのキャリアによって年齢も職業も生活もさまざまに違ういろんな人たちを、見たり、知り合ったり、話したりすることがとても増えた。で、「ファンっておもしろいなあ」と日々感じることが多くなっていたところでこの連載が始まったので、「やられた!」と思ったのだろう。「ファンっておもしろいなあ」という言い方はちょっと雑か。「ファンである人生」とか、「ファンであることが組み込まれた生活」とかについて、いろいろ考えることが多くなった、ということです。

  もちろん、自分だってそうなわけです。たとえば僕に置き換えると、この『ディス・イズ・ザ・デイ』の1話みたいに、自分を主人公にして「ビートたけしと自分」「奥田民生と自分」「松尾スズキと自分」「伊集院光と自分」について書け、と言われたら、文章の巧拙は置いといていいなら、あと三人称じゃなくて一人称でもOKなら、何かしらは書けると思う。あなたも書けるでしょ。

  だから、津村記久子サッカーJ2のファン11人を主人公にして書いたこれ、ロック・ファン11人でも書けるじゃないか! と思ったのだった。次はそれで書いてくれればいいのに。津村記久子本人と面識があるのでそう言いたいが、自分の才能が特別にすごいものであるということを、いまいちわかっていない人なので、「兵庫さんが書かはったらええやないですか」とか平気で言いそうだしなあ。

 

  なお、この小説、あとがきで本人に謝辞を述べられている人たちの中に、僕の名前も出てくる。

  第11話の舞台が広島の呉で、リアルな方言がわからないので、そこだけ赤入れてもらえません? と依頼されて、会話の部分でちょっとだけ、お手伝いしたのでした。

  連続テレビ小説の方言指導の人みたい。自分が広島出身であることがそんなふうに役に立つ日が来るとは。とか思っていたら、そのあと別の知り合いから「兵庫さん広島出身でしたよね? 後輩が担当してる作品が、舞台が広島で──」と同じような依頼があって、「え、また?」と驚いたりもした。

  それ以降は来ませんが。というか、そもそもふたつ続いた方が不思議ですが。

いいじゃねえか違ったって

  この間、こんなツイートをした。

 

  僕が好きな映画を友人がボロクソに言っているツイートが流れて来て、「俺はおもしろかったけど!」と彼に送ろうとした次の瞬間、そうやって「俺は違う」と伝えないと気がすまない時点で病んでいると気がついてやめた。いいじゃねえか違ったって。

 

  これ、1週間でリツイートが250を越え、いいねが1350を越えた。普段はリツイート1ケタがあたりまえなので、びっくりした。で、そういえば、1年くらい前にも、ちょっとびっくりした、というか興味を持った、これに近いことがあったのを思い出した。

  2017年の夏、SUUMOのサイトの作家やライターが自分のなじみの土地について書くコーナーの執筆依頼をいただき、地元広島について書いた。その中に、僕の周囲の東京に住んでいる広島出身の人はみんな地元が好きで、いつかは帰りたいって言うんだけど、みんな僕と近い業種で、それだと東京にいないと仕事ができないからなあーーというようなことを書いたところ。

 「自分は広島出身だけど広島にはあんまり帰りたくない、典型的な田舎で居心地はよくない」という感想が飛んで来た。なんで?と思った。広島が嫌いだということについてではなく、それを僕に知らせて来ることについて。

  いや、そりゃもちろん広島が嫌いな広島出身者だっているでしょ。だから俺も「僕の周囲は」というふうに限定して書いたわけであってですね。「広島出身者はみんな広島が好き」と書いているなら「俺は違う」と反論したくなるのもわかるけど。

 と、ここまで考えてから気がついた。たぶん、彼が僕のその文章を読んだ時点で、彼にとっては自分が「僕の周囲」ということになったのだ。逆に言うと、僕の目に入る形で彼が何か言える状態にある、という時点で、彼にとっては自分が「兵庫の周囲」である、ということなのだろう。

 でも、もしそうだったとしても、彼が間違っているとは言えない。SNSってそもそも、そんなふうに、自分の周囲と周囲以外の境界線が消える、もしくは限りなく曖昧になるということが画期的だったがゆえに、ここまで広がったのだ、というものでもあるので。

 

 というのを、自分の件に戻して考えてみる。僕の場合、その映画の感想が自分とは違っても、それが見ず知らずの他人だったら「ふーん」で終わりだっただろう。でも、自分と趣味が合うと思っている、長い付き合いの友人だったから「えっ?」と驚き、本人に「俺は違う」と伝えたくなったのだろう。

 はい、問題はここです。なんで伝えたいの? たとえば、そのツイートからするに、どうも友人が怪しげな宗教にはまっているらしい、心配だ、とか、自分からするとあきらかに「それはダメだろう!」という政治的信条を友人がツイートしているとか、そういうことなら「それは違う」と伝えたくなるのはわかる。

 あるいはこのたびの東京オリンピック、世間はすっかり「決まったんだからみんな応援すべし」って風潮だけど、俺は今でもやるべきではないと思ってるからな、同調圧力に屈しないからな!という気持ちだったら、というか実際そういう気持ちなんですが、とにかくそういうことであれば、そこで「俺は違う!」と声を挙げたくなるのも納得できる。

 でも、映画の感想だよ? 急いで本人に伝えるほどのことじゃないじゃん。次に会った時に言う、程度でいいじゃん。なのに「俺は違う」とすぐ伝えたくなる。自分と親しい人間が自分と意見が違うことが許せなくなる。同調圧力か嫌いって書いたばかりなのに、自分も人に対して同じような感情を持っている、とすら言えるかもしれない。

 という事実に、「ああ、病んでるなあ俺」と思ったのでした。世の中全体がそのような「人は自分とは違う、違っていてもいい」という多様性を認めない方向に進んでいる、という認識はあったが、まさに自分もそうなっていると実感した、ということです。

 

 あと「SNSだから」「ネットだから」というのもあるか。広島嫌いの彼も、インターネットのない時代で、僕が書いたその原稿が雑誌に載っていたのだとしたら、ハガキを買って来て、その表に編集部の住所、裏に「俺は違う」と書いてポストに投函する、なんてことはしないだろう。めんどくさいから。SNSでパッと送れるから書いたのだろう。逆に言うと、SNSでパッと送れるようになって以降、「自分の気持ちになんかひっかかったらそれをすぐ本人に言うべき」みたいな考え方がしみついた人が、(自分も含め)多くなっている、ということだとも言える。

 

 書いていてもうひとつ思い出した。2、3年前だったと思うが、僕が何か書いたことに対して(何を書いた時かは忘れてしまった)、同業者の知人に、ひとことで切って捨てるような批判のツイートをされた。たとえばブログとかで「それは違うと思う」と、ある程度の文字量でそう思った理由が書いてある、とかならわかるが、そうではない。ひとことでバサッ。先輩後輩で言うと、相手は後輩。

 批判されたのはいいとしても、こいつ次に俺に会った時どうするんだろう、と思っていたんだけど、どうもしなかった。普通に和やかに接して来て、その件については何にも触れない。

 つまり、そいつにとっては、SNS上で誰かを批判するという行為と、その人と実際に会ったり話したりするという行為が、完全に分断されているということだ。批判したこと自体、忘れているのかもしれない。

 うわ、これはこれで病んでるなあ、きっと俺だけじゃなくていろんな人に同じことをやってるんだろうな、だとしたらそれ、すっげえ日常生活に支障をきたすだろうなあ、と思いました。

 

 どう締めればいいんだかわからない文章になってしまった。

 とにかく、そのようなことに日々自覚的でいないと、そして常に自分を律して気をつけていないと、危険だなあ、と思うことが多いです、最近。という話でした。

ライブハウスが遠い

  なんの正当性も説得力もないことはわかっているし、共感と反感だと後者が圧倒的多数になるであろうことも予測している。が、がまんできないので書く。

 

  ライブハウスが遠い。

 

  Zepp TokyoZepp DiverCity、新木場スタジオコースト。気がついたらここ2~3ヵ月、この3つのライブハウスにばかり行っている気がする。遠いのだ、家から。めんどくさいのだ。渋谷なら、恵比寿なら、あるいは中野サンプラザくらいまででも、うちから自転車でピュッと行けるのに。

  いや、重々わかっている。たとえば南砂町や西葛西にお住まいのあなたからしたら「は? 私んちからは近くて便利なんですけど」という話でしかないことは。わかっているがしかし、1991年に東京に出て来てからこっち、渋谷から5駅以内に住み続けて来たのは、長年勤めた会社が渋谷だったというのがいちばんの理由だが、もっともライブが多い場所が渋谷、というのも歴然とあってですね。

 

  どうした渋谷。音楽の街じゃなかったのか。いや、渋谷、今もライブハウスだらけではあるが、つまり、そこそこキャパのあるハコがなくなってしまった、ということだ。渋谷公会堂SHIBUYA-AXも亡き今、よく行くのはクアトロ(800キャパ)とWWW(450キャパ)とWWW X(500キャパ)、あとSHIBUYA O-WEST(600キャパ)くらい。1300キャパのO-EASTもあるが、なぜか僕が観に行くバンドはあんまりやらない。恵比寿のリキッドルーム(900キャパ)もよく行くが、クアトロとそんなに変わらない規模だ。

  なお、今年9月にオープンした渋谷ストリームホールはまだ行ったことがないが、調べたら700キャパだそうなので、クアトロとそんな変わらないくらいですかね。ちなみにマイナビBLITZ赤坂もよく行く。あそこは1,400強のキャパである。

 

  要は、現在、東京でのワンマンにおいて、2, 000~3,000キャパが望ましいバンドは、中野サンプラザZepp TokyoZepp DiverCity、新木場スタジオコースト豊洲PIT、東京ドームシティホール、以上の中からどこかを選ぶ、というような按配に、ここ数年でなったということだ。で、僕が観に行くようなバンドはそのあたりのキャパに集中しているらしい、特にここ2~3ヵ月はそうだったらしい、という話です。

 

  なんで渋谷とか新宿とかにそういうでかいハコ作らないかなあ。カネがかかりすぎるからです。なんでバンドはそういうハコばっか使うかなあ。都心の物件と比べるとキャパのわりにハコ代が安いからです。わかっているんです、そのあたりのことは。わかっているんですが。

  あと、「バンドめ、カネをケチりやがって!」 とも、一概には言えない。高いハコを押さえたことによって、その分チケット代を上げざるを得ない、そのシワ寄せが来るのはお客さん、ってなことだって、充分考えられるわけなので。

 

  そもそもおまえほぼ招待で行ってるくせにガタガタ言う資格ねえだろボケ、とののしられても何も言えないことを書いてしまった。

  でもまあ、そんなようなわけで、「2020年夏に羽田にZeppが誕生」というニュースが10月末に流れた時は、ショックのあまり、なんにもリアクションできなかったのでした。

 

  ああ。すべてのバンドの東京公演が、昭和女子大学人見記念講堂になればいいのに。

  近所なのです。かつて、ビョーク奥田民生藤巻亮太などを観たことがあります。