兵庫慎司のブログ

音楽などのライター、兵庫慎司のブログです。

同じことを二回書くのはありでしょうか?

  と、同業者にも問いたいし、読む方々にも訊きたい。

  たとえば、芸人さんが同じおもしろエピソードを複数の番組でしゃべるのは、べつに普通ですよね。もうひとつたとえば、千原ジュニアが日曜深夜放送(東京では)のケンドーコバヤシとのトーク番組『にけつッ!!』でしゃべるエピソードが、週刊SPA! の彼の連載『大J林』の内容と同じ、ということがよくあるが、これもべつにいいと思う。媒体が違うし。

  80年代のビートたけしは、まず『オールナイトニッポン』でしゃべって、そこでウケがよかった話をテレビに持って行く、ということをよくやっていた。あれなどは、むしろ、テレビでその話が披露されるたびに、先にラジオで聴いていた自分を誇らしく思ったものです。

 

  では、ダメなのはどんなやつか。たとえば、ふたつのメディアから同じアルバムのレビューを頼まれた、あるいは同じアーティストについて書いてくださいと頼まれた、という時に、まったく同じことを書くのは、なしだと思う。同じ切り口だけど書き方が違うとか、一部かぶっているところはあるけど半分以上は違う内容だとか、そんなふうにして完全に同じにはならないように書かなければいけないでしょ、という。

  とあるライターにこれをやられて、「この間、☓☓に書いておられたのと同じですよね。それは困ります」と言ったらブチキレられた、という話を、昔、知人の編集者からきいたことがある。「なんてひどい!」と、素直に思ったものです。

 

  つまり、自分の経験したエピソードなんかの事実に基づいた話はいいけど、論旨や切り口を自分で考えて書くものに関しては、まったく同じことを二回以上書くのはなし、ということのようですね。と、ここまで書いてみて思ったが、なんでうだうだこんなことを言うておるのか、というとですね。

  私、音楽雑誌とかに何か書いたりするようになって28年ぐらい経つのですが、このたび初めて「同じことをもう一回書きたい」という衝動にかられたのでした。

  特定のアーティストの、「俺はここがいいと思う」「俺はここが好き」というポイントに関しての、短いテキストです。そのアーティストの作品に関するレビュー的な記事の依頼が来て、その作品に触れている時に「あ、あれ、もう一回書きたい!」と、唐突に思い出したのだった。

  理由はふたつ。まず、その切り口を思いついた時、自分がそれをとても気に入ったこと。そしてふたつめは、それを書いたのが10年ぐらい前で、しかもそんなにメジャーではない場所だったので、そもそも読んだ人が少ないだろうし、読んだとしても今でもそれを憶えているという人は、限りなくゼロに近いのではないか、と思われることです。

  要は、せっかく思いついたのにもったいない、埋もれているなら掘り起こしたい、という気持ちなのでした。決して「同じことを二回書いて楽したろ」という理由ではありません。このことに関して、こんな1円も発生しないブログを延々と書いている時点で、「楽したろ」とは逆であることが、おわかりいただけると思います。

 

   向井秀徳って、同じ歌詞をいろんな曲で使うじゃないですか。「くりかえされる諸行無常 よみがえる性的衝動」とか。以前、確かNHKの番組だったと思うが、「なんで何度も同じ歌詞を使うんですか?」と問われた彼は、「何度も言いたいんですよ!」と、簡潔に答えていた。

  それと同じようなことかもしれない。違うよ。そんないいもんと自分を並列にすんじゃねえよ。

 

  で、結局、がまんしきれずに、書いて送ってしまった。

  編集部はまず間違いなく気がつかないと思う。で、後日、これが世に出た時、もし「これ昔おまえが書いたやつと一緒じゃねえか!」と指摘されたら、「ばれた! みっともないことした!」という恥ずかしさよりも、「そんなの憶えててくれたんだ?」という喜びの方が勝るだろうなあ、どう考えても。じゃあいいや。と、判断したのでした。

 

  って、自分の中で完結したんなら、人に問うんじゃねえよ。という話なんだけど、「椎名誠は自伝的サラリーマン小説を何作も書いてるよなあ」とか、「伊集院光がラジオでたまにする、若くして亡くなった友達=近藤くんの話、こっちは何度も聴いている上に彼の著書『のはなし』シリーズも読んでいるから『ああ、あの話か』って思うよなあ、でもそれ不快じゃないしむしろ楽しいよなあ」とかいうふうに、「同じ話をこすること」に関して、いろいろ思い出したり考えたりしたので、何か広がらないかしら、と思って書いてみたのだった。

  そしたら大して広がらなかったのだった。

ラジオとツイッターの相似点

  できればラジオで募った情報はラジオあてにいただきたいのですが……まあ図々しいと思われるならしかたなしですが、ラジオとツイッターってむずかしいなあ。

 

  伊集院光、2月5日のツイート。ラジオのコーナーで募った情報を、彼のツイートへの返信として送られても困る、ということであって、「そりゃあそうよね」と納得するしかない話だと思うのだが、それに対して「なんでダメなんですか?」とか「ラジオでツイッターアカウントを取ればいいのでは?」というような声が上がっていた。

 

  まず、彼の番組のリスナーとして、というか、ラジオ好きとして、めっちゃイライラした。ちょっと考えりゃわかるじゃん、なんでダメなのか。理由は山ほどあるけど、まず何よりも、投稿を募る→リスナーが番組に送る→それを番組が選んで放送で紹介する、というのがラジオのコーナーであって、ツイートありにしちゃうと「リスナーが番組に送る」の段階でそのネタが世間に公開されちゃう、だから成立しない、ってことが、なあんでわからないかなあ。

  なんでみんなこんなに無理解なのよ。ツイッターもメディアだということをわかってなさすぎない? ラジオをなんだと思ってんのよ。ほんとにラジオ聴いてんの? ラジオ好きなの? 聴いてないんじゃないの? だからわからないんじゃないの?

 

   と、ここまで考えてから気がついた。違う。ラジオ聴いてないってことはない。逆だ。ラジオ好きなんだ。よく聴いてるんだ。だからツイッターと混同しちゃうんだ。

 

  ラジオとツイッターって似てるなあ、と思うことがよくあるのです。まず、以前にもこのブログに書いたことがあるが、僕の場合、日常の中でふと「あ、これツイートネタになる」と思う瞬間って、『ビートたけしオールナイトニッポン』に送るネタを1日中考えていた中学高校の頃に「あ、これ!」と思いついた時の感じと一緒なのだ。

  うん。書いてみてわかった。これはあんまり関係なかったですね。

 

  じゃあどこが似ているのか、ラジオとツイッターは。それを発信している有名人と受け手である自分との心理的距離がものすごく近くなる、近いように錯覚させる、というところだ。

  ツイッターに限らずSNS全般が、そのような、実生活では接点を持ちようがない有名人とかに話しかけることができる、そして返事が返ってきたりすることもある、という「距離の取り外し」が魅力のひとつだから、ここまで普及したものだとも言えるし。

  で、本来なら、ラジオでそれにあたるのは、「投稿が読まれる」もしくは「電話で参加するコーナーに出る」ことなので、直で言葉を交わせる確率はツイッターよりも限りなく低いが、そうであっても、ただ黙って毎週ラジオを聴いているだけで、それと同じような感覚になってしまうものなのだ。そのしゃべっている人の友達みたいな。なんで。だって俺、その人のことをこんなに詳しく知ってるんだから。

  テレビに出ている人はみんな自分の知り合いだと思っていて、街で見かけると気さくに話しかけるおじさん、あれと同じマインドなのだろう、という話です。

 

  自分も、力いっぱい思い当たるフシがある。たとえば、伊集院光に対しては、僕の場合「会いたくない、面識を持ちたくない、ラジオを聴いているファンのひとりでいたい」という畏怖込みの気持ちがあるのでちょっと違うが、それ以外の人たち、つまり『深夜の馬鹿力』で彼の話にしょっちゅう出てくる「構成の渡辺くん」や「オテンキのGOくん」を、僕は無意識に友達だと思っているフシがある。たぶんこれ、自分を彼らと並列に「伊集院の周囲の人たち」と無意識に位置付けているんだな、と、今書いてみて気がついた。理性ではそんなわけないのはわかっているのに、その理性の手前の段階でそうなっている、というか。

 

  『伊集院光のてれび』に出ていた売れない若手芸人たち、紺野ぶるま松丸ほるもんがテレビに出て来ると「おお!」と喜ぶし、バイきんぐ小峠やメイプル超合金安藤なつの売れっぷりを観るたびにしみじみするし。

  という感情が強まりすぎていて、ヤバいわ俺。と自覚したのは、2017年の『キングオブコント』で、にゃんこスターが準優勝した時だった。アンゴラ村長じゃん! 『伊集院光のてれび』のオーディションに来た大学生の女の子のコンビの片方じゃん! 「いかにも大学生なネーミング」と伊集院に言われていた、出演者紹介映像を撮るためのコントライブで「他に何もできないから」縄跳びをさせられた、スタッフが「来なくてよくなった」という連絡をするのを忘れて現場に来ちゃったから『てれび』に出演した回がある、あのアンゴラ村長じゃん!

  2位だけど完全に優勝者食ってるじゃん! すごい! 偉い! 今度会ったら絶賛しなきゃ! ……え? 会うって何? 会わねえよ。どこで会うんだよ。何この俺の精神状態。ヤバいよ。

 

  というふうに、自覚したのでした。

  書いているうちにすっかり話の流れを見失ってしまったが、えーと、つまりそのように錯覚させる力が強大である、というポイントが、ツイッターとラジオは近いんだなあと。だから両方触っている人は、それをごっちゃにしてしまうこともあるだろうなあと。特に、物心ついた頃にはもうネットがあった、ツイッターがあったくらいの世代だと、よけいそうなっても不思議はないなあ。でも、その錯覚させる力が大きな魅力でもあるんだから、一概に「それは違う!」「そんな親近感持つんじゃねえ!」とか言うのも違うしなあ。

  という話でした。

  書いたところで、なんの解決にもならないが。

 

  なお、バイきんぐ小峠は、『伊集院光のてれび』の前のシリーズ、『伊集院光のばらえてぃー』の『だるまさんが動いたらみんなバラバラの巻』という企画に出ていて、その存在を知りました。カズレーザーは、最初は「安藤なつが組んだ新しいコンビの相方」という知り方でした。

  私、べつにお笑い通ではありません。伊集院周辺のことだから知っているだけです。伊集院リスナーがこれを読んだら、「そんなのみんな知ってるよ」としか思わないことでしょう。

朝と夜を間違える

  TBSラジオ伊集院光とらじおと』、2019年1月22日火曜日の放送。月曜から木曜の8時30分から11時まで生放送されているこの番組、毎日10時からゲストが来るのだが、この日のゲストである歴史学者の呉座勇一が時間になってもスタジオに到着しない、というトラブルが発生した。で、結局現れず、前半はその前のコーナー『俺の五つ星』にレポーターで出ていたお侍ちゃん(という芸人)を呼び戻してそのコーナーの延長戦をやり、後半はこの次の番組『生活は踊る』のジェーン・スーが飛び入りして、ゲスト不在の時間を乗り切った。

  番組が始まって2年9ヵ月になるが、こんなことが起きたのは初めて。当事者のみなさんはさぞかし大変だったとお察しするが、「うわ、生放送ならではのトラブル! レア!」と、めっちゃワクワクしながら、楽しく聴きました。

  「呉座先生連絡取れまして、実にシンプルな連絡ミスが原因でした。楽しみにしていただいたリスナーの皆様すみませんでした! 近日ゲストにおむかえします」

  伊集院光は、放送終了後にそうツイートした(ってことは、放送中は連絡取れなかったのね)。そして翌日=1月23日水曜日の放送の冒頭で、改めて説明があったのだが、呉座先生、「朝10時」を「夜10時」と間違えていたのだという。「来週の火曜に改めてゲストでお迎えします」とのこと。

  びっくりした。ある? そんなこと。呉座先生、天然な方なのかもしれないが、だとしてもわかりそうなもんじゃん……いや、そうは言えないか。ラジオを聴く習慣がない人は、伊集院光が何時に番組をやってるとか知らないか。いやいや、でも、自分がゲストで出るってなったら「どんな番組なんだろう」って公式サイトを見てみるくらいのことはしない?……しない人もいるか。でもなあ。朝と夜、間違えるか?

 

  ……いや。間違える。そういう人もいる。昔あったわ、同じことが。

 

  松尾スズキの担当編集者が集まって彼の誕生日を祝う「松尾会」という催しを、毎年12月に行っている。確か2001年とかそれくらいに始まったから、もう17年か。参加するのは毎年20人強、ただし、現在も松尾さんの編集担当なのはそのうち3分の1くらいで、あとの3分の2はファンなので松尾さんのまわりをウロウロしていたい元担当。中には、会社をやめて、もう編集者じゃなくなっている奴もいる。私ですが。

  で、とにかく。その会が始まって、5回目か6回目の頃のこと。

  今年は趣向を変えたい、と松尾さんから希望があった。松尾さんの初代助手の齋藤小番頭が卒業したので、サプライズで彼の門出を祝いたい、と。

  夜、ホテルのスイートにカンヅメになって脚本を書いている松尾さんが、頼んでおいた資料を持って来てくれ、と彼を呼ぶ。何も知らずにやって来た彼を、全員なまはげの扮装をした我々松尾会が囲み、「職のない子はいねがー!」と叫びながら就職情報誌を投げつける。で、松尾さんのスピーチのあと、彼の労をねぎらう宴会に移る、というのが、松尾さんの発案だったのだが。

 

  当日は日曜だったので悠々と寝ていたら、朝9時すぎ、電話の音で起こされた。松尾さんの二代目助手からだった。

 「あの、私、みなさんに、夜9時ってお伝えしましたよね?」

 「……え? は? 何? そらそうでしょ?」

 「Wさんがもうホテルにいるんです。今、電話がかかってきて」

 

  そう、松尾会の古参編集者のWさん、なんでかわからないが朝9時だと思いこんで、ホテルに行っちゃったのだ。で、誰もいないしどの部屋に行けばいいかわからないしで、二代目助手に電話して、初めて夜9時だということを知ったという。

  いや、二代目助手が正確に「夜の9時ですよ」と言ったかどうかは、正直、俺も憶えてないよ? ないけど、だって朝の9時なわけないじゃん。現に彼以外は全員、夜の9時に集まったし。

  と、夜、顔を合わせてから彼に言ったのだが、なぜそう思い込んだのかはよくわからないままだった。今思い出した。朝9時じゃないことがわかったあと、彼はそのホテルの周辺で夜9時までの時間をつぶしたそうだ。それも謎だ。12時間じゃん。よくつぶせたなそんなに。なんでいっぺん帰るとかしないのか。

 

  書いていてもうひとつ思い出した。その「なまはげの扮装」というドレスコード、僕と後輩のロッキング・オン・チーム2名は、「こういう時こそ手抜きはいかん」と、本気のなまはげセット(鬼の面・藁でできたミノ・手に持つ斧など)を、ひとり2万円出してプロの衣装屋に借りたのだが(もちろん自腹です)、そんなガチなのは我々だけで、ほかの編集者たちは、節分の豆のおまけみたいな紙の鬼のお面だったりした。

  特にテレビブロスの担当は、「紙袋に鬼の顔を描いてかぶる」という、雑さの極みみたいな按配で、非常に腹が立ったのを憶えています。

  あと、スイートルームの絨毯の上に、我々のミノの藁がどんどん抜け落ちて、松尾さんが困っておられたのも、憶えています。

 

  あ、あともうひとつ。その「ゲスト呉座勇一来ない事件」の翌日の、1月23日水曜日の『伊集院光とらじおと』。その日のゲストの絵本作家のヨシタケシンスケは滞りなく来て出演をすませたが、翌日のゲスト、特技監督中野昭慶が、9時半頃に来ちゃったそうです。「明日ですよ」「あ、そう」と帰って行かれたそうです。ということが、番組終了間際に、伊集院光の口から明かされました。

  ちなみに今日、1月24日木曜日は、何事も起きませんでした。中野昭慶監督、普通に出演されました。

TBS『MUSIC HERO』に出ました

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   2019年の仕事は、1月1日に1本、1月2日に1本、で始まった。

  この日に働いた、ということではなく、年内に終わっていた仕事がこの日に世に出た、という意味です。

  まず、SPICEに書いた12月24日大阪城ホール東京スカパラダイスオーケストラ(ゲストで斎藤宏介・TOSHI-LOW峯田和伸宮本浩次が出演)のライブレポ。本番の翌々日に納品したテキストが、1月1日にアップされた。

  こちらです。http://spice.eplus.jp/articles/222784

  で。1月2日。23:25から放送されたTBSの音楽番組『MUSIC HERO』。番組の前半があいみょん、後半が岡崎体育の特集で、後半で岡崎体育の魅力について語る数人の中のひとりとして出演した。

  収録では、ほぼ黙ってうなずいていただけだった上に、たまにしゃべれば地獄の滑舌&地獄の早口なので(石原さとみに「え? え?」って聞き返されたほどです。カットされてたけど)、相当みっともないことになっているだろう、と大変に憂鬱だったが、とてもうまい具合に編集されていて、心配したほど悲惨ではなかった。

  僕以外のみなさんは、おもしろいことをもっといっぱいしゃべっていたんだけど、かなり編集されてああなっていた、でも僕だけはほぼそのままだった、と言っていい。削っちゃうと、ほんとにただ座ってるだけの謎の奴になってしまう、という理由だと思いますが、なんにせよ、ちょっとホッとしました。

 

  さすが地上波というか、友人知人親類縁者などからラインやメールがいくつも届いた。知人以外も、「兵庫が出てる!」と多くの方がツイートをとばしていた。クソミソに書かれていたりするものが思った以上になかったので、それもちょっと安心したが(僕がそういうのを発見できていないだけかもしれないが)、ただ、「ここはツッコミ入れるとこでは?」と自分でも思うポイントを、みなさんスルーしておられるのが気になった。

 

  これです。 

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  「岡崎体育のライブにも足しげく通う音楽ライター」と、僕のことを紹介するナレーションの時に使われた写真。

  何これ。何やってんの。いねえよ、こんな音楽ライター。

  昔、インディードのCMで、ステージのソデでPC開けて原稿を書いてる音楽ライターの女の子を見て、「いねえよこんな奴、いたらローディーに蹴られるよ」と思ったものだが、それに匹敵する「いねえよ」レベルである。

  2017年のロック・イン・ジャパン・フェス、SOUND OF FORESTの後方の芝生。雑誌ロッキング・オン・ジャパンのこのフェスの特集の、ライブ写真に付く短いテキストを書く仕事で、ちょうどポメラを買ったばかりで使いたくて、客席エリア後方でこんな形になってちょっと書いてみたのだが、メモる程度だったらポメラよりスマホの方が全然便利だとわかって、すぐやめた。

  が、やめる前に、通りかかったライブカメラマン岸田哲平に発見されて、撮られたのだった。

 

  で。番組の収録の翌日、ディレクターからメールが届いた。

 「兵庫さんがライブを観てる写真を送ってください」

  ないよそんなの。と困ったものの、一応探したら、この写真が出て来たので、「こんなのしかないんですが」と送った。返信がなかったので、やっぱボツか、と思っていたら、あのような形で使われたのでした。

 

  以上、誰に対してなんのためなのか自分でもわかりませんが、言い訳でした。

  2019年もどうぞよろしくお願いいたします。

穏やかに。。。

  満員電車がホームに着いて人が乗り降りしているのに、ドア前に立ったままでいったんホームに降りて待とうとしない奴に出くわすたびに、体当りして車内に押し出したくなる。ライブハウスのバーカウンターで右に並んで順番を待っていたら、それに気づかず左から割り込んできてドリンクバッジを出す奴には「こらあ!」と叫びそうになるし、そいつにドリンクを出す店員には「出すなあ! 注意せい!!」とダブルでわめきたくなる。

  いや、「わめきたくなる」を超えて「わめいてしまった」こともあります。2018年のフジロック、混み合っているレッドマーキーでイスを畳まずに観ている人たちにプチンときて、曲間になったところで「混んでるよ! イスじゃま! たたんで!」とわめきちらしてしまった。みんな立ったけど、「マナー悪い奴に言うたった!」みたいな爽快感はゼロ。「うわあ、絵に描いたような『キレる中年』じゃん、SPA! で特集されるやつじゃん、俺」というどんよりした気持ちを、その日いっぱいひきずることになりました。

 

  かように、あきらかに、そういうことにいちいちカチンとくるようになってきている、ここ数年で。そのことによって「正しく生きる俺」みたいな満足感を得ることができているかというと、もちろんそんなわけはない。全然逆、心が荒れる一方です。

 「穏やかに。。。」

  有吉弘行ツイッターのプロフィールには、そう書かれている。

  “Keep calm and music on”

  Caravanのアコースティック・ギターには、こんな言葉が貼られている(前にこのコピーでポスターも作っていた)。

  もんのすごいわかる。ああ、穏やかでいたい。落ち着いていたい。そんな些細な不愉快は、気にならないメンタルになりたい。だからゆってぃも「ちっちゃいことは気にするな、それワカチコワカチコ」を編み出したのだろう。違うか。あれは「頭にくることを気にするな」ではなくて、「傷つけられることを気にするな」というネタだから。

 

  なので、なんでこんなに自分がこんなことになっているのか、改めて考えてみた。

 

①加齢。

  シンプルだが絶対ある。しかもふたつの意味で。

  ひとつめは、怒りに限らず、歳をとると感情を抑えられなくなるということ。NHKの『チコちゃんに叱られる』で、「なんでおじさんはオヤジギャグを言うの?」という問いと、別の週の「なんで歳をとると涙もろくなるの?」という問いの、どちらもが「がまんが利かなくなる」という答えだった時は、「やっぱり」と思いました。

  で、もうひとつ。加齢によって、キレたいけど相手が怖いからキレられない、というビビリが薄まった、というのもたぶんある。僕は身長182cmで体重76キロ。でかくて不機嫌な50のおっさん。怖いでしょ、だいたいの人にとっては。さらに、自分の年齢だと、普段接する相手が、年上よりも年下の方が圧倒的に多い。ということが意識の中に織り込まれていて、「怖いからがまん」「目上だからがまん」というブレーキが、利きにくくなっているのではないか。

 

②ネット社会、SNS社会になったから。

  以前ならムカッときてもその気持ちを発する手段がなかったけど、今はいくらでもある、だから黙ってがまんする必要がなくなっている、ということです。

   僕の書いたコラムの内容について「俺は違う」という言葉を飛ばしてきた人に関して、「これがネット普及前で、僕のテキストが雑誌に載っていたとしたら、この人はハガキを買ってきて『俺は違う』って書いて編集部に送ったか? しないでしょ、面倒だから」というような話を、以前このブログに書いたのだが、そういうことです。簡単に世に発表できることに慣れたから、昔だったらほっとけばそのまま消えた程度のむかつきをスルーできないマインドになった、という。

 

③世の中全体が厳しい方向へ進んでいるのにつられて、自分もそうなっている。

  というのが、いちばん大きいんじゃないかと思う。小泉政権になる前後くらいから、というのが僕のなんとなくの体感なのだが、飲酒運転、駐車違反、違法駐輪、未成年者の飲酒・喫煙、などが厳しく摘発されるようになっていった。喫煙者にとって暮らしづらい世の中になり始めたのもこの頃だ。

  時期を同じくして、有名人が薬物で逮捕された、とか、不倫とか二股とかに対しても、いっそう厳しく叩かれるようになった。このへんは、誰かを叩くのに最適なインターネットというものが普及して、それにメディアがのっかっているのも大きいか。

  とにかく、というような「よくないとされること」のすべてに対して、昔はもっとゆるかったけど、今の世の中はとても厳しい、だから自分も「よくないことはスルーしない!」というマインドになっている、よっていちいちイライラする、ということです。

 

  で。もっとも憂鬱なのは、ここまでわかっていて、なんでそれでも治らないかなあ、という問題です。なので、それを治していくことを、2019年の目標のひとつにします。とにかく、このままでは暮らしづらいので。

  フィリピンのセブあたりでよく使われる、「ヒーナイヒーナイ」という言葉があります。ビサヤ語。「ゆっくり、のんびり」みたいな意味です。最近カチンとくるたびに、心の中で「ワカチコワカチコ」と唱えていたのですが、2019年は「ヒーナイヒーナイ」に変えようと思います。

なぜ「袋いりません」は無視されるのか

  5回に4回は無視される。スーパーマーケットのレジで「袋いりません」と言っても。

  そう伝えても、ほぼ確実に、買い物カゴにレジ袋を入れられてしまう。オオゼキ、東急ストア、サミット、ライフ、どの店でもそうだ、僕の場合。

 

  相手が聞き取れていないからではない。己が地獄の滑舌であることは自覚しているので、「袋、いりません。」と、80年代のコピーライターブームのように、文中に句読点を入れるぐらいのニュアンスで、ゆっくりはっきりくっきりと発語するようにしている。そうすると「はい、わかりました」とか「ご協力ありがとうございます」と、返事が返ってくる。にもかかわらず、「2,548円です」という言葉と共に、レジ袋をカゴにねじこまれてしまうのだった。やむなく声を張り気味にして「袋、いりません!」と言い直さざるを得なくなる。

  「袋ご不要の場合はカゴにこれをお入れください」というカードがレジの手前に吊してあるスーパーであっても、まったく油断できない。カゴをレジに置いたら、「ご協力ありがとうございます!」とそのカードを取り上げた店員が、次のアクションでレジ袋をカゴに放り込んでくることだってあるのだから。あまりの手際のよさに「袋いりません」と言い直すタイミングを逃してしまった、この時は。

 

  この件で困るのが、「バカ店員どもめ!」などと、当事者たちを責める気には全然なれない、ということだ。心は無のまま自動的に手が動く、くらいの状態にならないと、あのレジの作業をスピーディーにこなすのは不可能なんだろう、と思うので。

  僕が「異常に『レジ袋いらない』を忘れられる男」であると考えるよりも、ほとんどのお客が日々僕と同じように「レジ袋いらない」を忘れられている、と考えた方が常識的だろう。つまり店員たちは、1日に何度も「いや、袋いりませんて!」とか「袋いらないって言ったよね?」とか客に言われていて、それでも直らない、ということになる。ということは、店員の能力の問題なのではなくて、この制度設定自体に無理がある、と考える方が、正しくはないだろうか。

  ①客に「レジ袋いらない」と言われる②精算作業をする③金額を伝えてカゴにレジ袋をつっこむ、という流れなわけだが、たとえばレジ袋なしがデフォルトの店で、①客に「袋ください」と言われる②「はい」と袋をカゴにつっこむ、という流れならミスりませんよね? だから、客に言われてそれに応えるまでの間に②の精算作業がはさまるからその間に忘れるのだということと、そもそも「客に言われて自分の動作をひとつ足す」のは簡単でも「客に言われて自分の動作をひとつ引く」のは、行動生理学的に難しいのではないか、ということが推測できる。

 

  要は「レジ袋無料だけど環境問題とか気にしないといけないし、できれば『いらない』って言ってください」というファジーなオペレーションにすること自体に問題があるのではないか、という話でした。さっさとみんな、OKストアや西友のように「レジ袋有料」というルールにしてほしい、と切に願う。もしくは無料でも「くれと言われないと出さない」にするか。

 

  書いていて思い出した。飲食店で「領収書ください」と頼んで忘れられることはまずないが、書店だとけっこうある。あれも、「領収書くれと言われる」と「領収書を切る」の間に、おカネを受け取ってレジに持って行ったり本にカバーをかけたり袋に入れたりする作業がはさまるからだと思う。

  あと、書店で「いらっしゃいませ」「カバーいりません」「はい、ありがとうございます、カバーおかけしますか?」と言われたこともあります。不条理コントのようなシュールな気持ちになりました。

 

  もうひとつ思い出した。喫茶ルノアール、コーヒーを頼んで「砂糖とミルクいりません」と言っても絶対に持って来るので、これはもう「客にそう言われても無視すべし」というオペレーションになっているんだな、と判断したのだが、それから3年くらい経ったある日、初めてコーヒーが砂糖とミルクなしで出てきて「え、違ったの?」とびっくりしたことがあります。

日本の俳優、男前

  この間、リアルサウンド映画部の依頼で、NHK連続テレビ小説まんぷく』に岡崎体育が出演したことについて、コラムのようなものを書いた。その中で、岡崎体育が演じたチャーリー・タナカ、あの役をほかの俳優がやるとしたら誰が近いか、という話を入れようとして、駒木根隆介と加藤諒のふたりはパッと浮かんだが、それ以上思いつかなかったので、「俳優 男 20代 30代」で検索をかけたり、いろんな事務所の所属俳優一覧を見たりして、あれこれ探した。で、思い知った。

 

  日本の俳優って男前ばっかりなのな。

 

  今さら気づくことか。と自分でも思うが、でも改めてそう実感したのだった。

  売れている役者はもちろん、全然知らない人まで含めてそう、おしなべて男前。なのでなかなか行き当たらない、チャーリー・タナカを演じてもおかしくないフォルムを持った俳優に。

  たとえば他のジャンル、お笑い芸人やミュージシャンと比べると、はっきりと差がある。いや、アイドルなら「男前であることが職業だから」とも言えるが、俳優ってアイドルよりも芸人やミュージシャン寄りの、「特殊技術を持って、それで食っている人たち」に近い職種では? と、僕は思っていたので。

 

  延々と「チャーリー・タナカ、あり」な俳優を探しながら、だから逆に俳優ではない岡崎体育にオファーが来たりするのかもな、もっと言うと、ピエール瀧や浜野謙太が、当初は本人そんな気なかったのに、あまりにもオファーが続くから、だんだん本職の俳優みたいになっていったのも、同じ理由だったりするのかな、と、思ったりもした。

  役者仕事の多い芸人さんもそうかもしれない。塚地武雅とか。今野浩喜とか。コントや漫才でちゃんと世に出ることができているレベルの芸人なら、だいたいの人は芝居も普通にできるものだ(と、以前マキタスポーツにインタビューした時おっしゃっていた)という理由以外に、本業の俳優の深刻な「男前以外不足」があるから、あんなに仕事が取れるのではないか。小劇場出身の役者(大人計画のみなさんとか)だけでは足りない、他ジャンルからひっぱってこないといけない、という。

  もちろんそれだけではなくて、芸人にしろミュージシャンにしろ、「本業の俳優じゃなくてもいい、この人がいい」という、強い存在感なりキャラクターなりがあるからこその、オファーだとは思うが。

 

  そういえば以前、白石和彌監督にインタビューした時、「イケメンが好きじゃないんですよ」という話になったことがある。

 「韓国の映画、マ・ドンソクとかが主演で撮ったりしてるでしょ? あれ日本で誰?って言ったら、ピエール瀧ぐらいしかいないですよね。だからやっぱ、顔力がある人たちが好きなんだろうな」とおっしゃっていた。確かに白石映画のピエール瀧出演率、とても高い。一位が音尾琢真、二位がピエール瀧、ぐらいだろうか。

  で、「顔力がある人たち」が好き、イケメンが好きじゃない、というだけじゃなくて、そんなにイケメンだらけだったらリアルじゃないでしょ、現実の世の中はそんなことないから、という話でもあるのではないかと思う。

  それはわかる。実際、邦画を観ていてそう感じることもある。たとえば11月に公開になった、入江悠監督の『ギャングース』。六本木で試写を観て、そのまま家まで走って帰りたくなったくらい興奮した、それはもう大好きな映画なのだが、唯一気になったのは、主人公の3人のうち、高杉真宙が美形すぎることだった。加藤諒はバッチリ、渡辺大知もセーフだけど(髪や表情で本来のツラのかわいさをうまくごまかせていた)、彼だけは「いや、さんざんな生い立ちで年少帰りで今も地獄の最底辺生活なのに、そんなきれいな顔じゃあリアリティが!」という気持ちは、正直、よぎりました。芝居はとてもよかったんだけど。

  まあそれを言いだしたら女優もそうなんだけど。同じ『ギャングース』だったら、こんな田舎のキャバクラに、山本舞香みたいな超ハイレベルなキャバ嬢いねえよ、という話になるし。

 

  にもかかわらず、なぜ日本の俳優は、そんなに男前だらけになってしまうのか。と考えると、「男前じゃないと客を呼べる俳優に育たない」「だから各事務所が男前を集める」という、あたりまえな結論に行き着いてしまうのだった。

  でも、常日頃からいろんな芸能プロダクションが、必死に俳優を売りこんで回ったり、オーディションを受けさせたりしている中で、そんなこと一切しなかったピエール瀧やハマケンが売れっ子になる、というのが、以前からちょっと不思議だったので、その答えのひとつがこれなのかもしれないな、と、思ったりもしました。

 

  あと、以上を書くにあたり、峯田和伸の例まで入れると、話が広がりすぎてまとまらなくなるので、あえてオミットしました。

   とりあえず今は、白石和彌監督・斎藤工主演の『麻雀放浪記2020』に岡崎体育が出演、というのが、とても楽しみです。