兵庫慎司のブログ

音楽などのライター、兵庫慎司のブログです。

「メガホンを取る」と「お茶の間」

  文章を書く時に、使うのをNGにしている言葉がいくつかあるのだが、その中で「便利なので使いたくなる、だから特に気をつける」という1位と2位が、僕の場合、「メガホンを取る」と「お茶の間」だ。

  映画を監督することを「メガホンを取る」。電話をかけることを「ダイヤルを回す」と言うのと同じくらい違和感がある。形骸化している言葉、現代の実態に合わなくなっている言葉を、使うのがイヤなのだと思う。

 「お茶の間」の方は、特にミュージシャンとか音楽ライターとかが「お茶の間まで届くような音楽」みたいな感じでよく使う。こっちに対する違和感は、「メガホンを取る」ほどは強くない。「今の家庭にお茶の間なんてねえよ」ということはない、と思うので。「家族みんなでテレビ観ねえよ、各自がワンセグで好きな番組観てるよ」とも言えるが、そうであったとしても、全員が食卓につける数の席があって、テレビを観ながらみんなで食事をすることが可能(するかしないかは別にしても)、という家庭の方が多いと思うので。

  だから、「お茶の間」という言葉自体に、抵抗があるのだと思う。「囲炉裏端」というのと変わらない感じがして。辞書を引くと、「茶の間:住宅の中の、家族が食事をしたり談笑したりする部屋」と書いてあるので、全然間違ってはいないんだけど。でもなんかイヤ。

 

  という、ごくごく個人的な感じ方の話です。「そう思う俺が正しい」というつもりはありません。ただ、「メガホンを取る」の方は、フリーのライターになりたての頃に、イヤだなと迷いつつも便利さに負けて使ったら、クライアントに「そういうのやめてください」とずばりと指摘され、ものすごく恥ずかしかったし後悔した。ということがあったので、それ以来、いっそう頑なに使わないようになったのだった。

 

  あと、インタビューやレビューや尾崎の小説の書評なんかで、クリープハイプに触ることがあるライターが「世界観」という言葉を使っていると「おいおい」と思う。なんか意味ありげで、使いやすくて、でもなんのことを指しているのかがふんわりとぼやけている、だからむしろ使いやすい、そんなこの言葉を安易に用いる人への皮肉として、尾崎は自分の芸名にしたわけでしょ。それ、尾崎に読まれたら恥ずかしくない? と、不思議に思う。

 

  というほどイヤではないし、本当になんにも間違っていないんだけど、「曲を流す」というのも、なんか避けてしまう。曲は「かける」ものであって「流す」ものではない、というか。いや、「流す」ものでもあるんだろうけど。特に(最近やってないけど)DJで、「兵庫さん、あの曲流してましたよね」とか言われると、「流してません! かけたんです!」と訂正したくなる。いや、だから、間違ってないんだけど。

 

  あともうひとつ。最近気になるのが、テレビ番組で食い物を紹介する時に、とても高い頻度で使われる、「愛情をこめて」とか「愛情がこもった」というやつ。「おかみさんの愛情がたっぷりこもった定食」みたいな使われ方ですね。

  愛情って、具体的な相手に向けてこめられるものですよね。だから、たとえば、お母さんやお父さんが子供のお弁当にこめるのはわかる。定食屋のおかみさんがいつも来てくれる常連さんに対してこめるのもわかるし、近所の××大学の学生たちが代替わりしながら長年通い続けてくれる、だからそこの学生たちに対してこめる、というのもわかる。

  でもこの「愛情のこもった」という言い方って、たとえば連日大行列のお菓子屋さんみたいに、お客さんの名前も顔も把握しきれない、みたいな店の時にも平気で使われる、テレビを観ていると。

  見知らぬ不特定多数に向けてこめる愛情って何? 「客」という概念への愛情なの? それ「人類愛」とか「地球愛」とかと同じようなこと? 食い物を作って売る際にこめるのがそれなの? というのが、とてもとても疑問なのだった。

  はい。書いてみてよくわかりました。ただの言いがかりですね、これ。

 

  あともうひとつ、ここまで書いて気がついた、「そんなこと言うんだったら」と言われてもしかたないこと。

  僕がツイッターのアイコン等に使っている、河井克夫さんが描いてくださった自分の似顔絵イラスト、エンピツ持ってるんですね。ライターだから。

  「おまえ今でもエンピツで書いてんのかよ」と言われたら、「書いてないです、すみません」と、謝るしかありません。

そのへんで見かける有名人

  某バンドマンにきいた話。

 「○○(バンド名)の××(彼の名前)、笹塚駅で見かけた。家、このへんなのかな」

  などとツイートしてミュージシャンのプライバシーを暴いてしまう困った人は、だいたいにおいてファンではないという。ファンはそのへん気を遣ってくれるから見かけたとしても書かない、自分のことを知っているけど自分のファンではないロック好き、ぐらいの人が、気軽に書いちゃうのだという。

  なるほど、と、とても納得した。ミュージシャンに限らず、芸人さんでも俳優でも誰でもそうですが、みなさんやめましょうね、そういうふうに書いたりするのは。と言いたいが。

  困ったことに、「書きたい!」という側の気持ちも、すごくわかるのだった。特に東京に住んでいると。なんで。だってしょっちゅういるんだもん、そのへんに。

  僕は18歳まで広島にいて、大学で京都に4年住んで、就職してから現在までの28年ずっと東京にいるのだが、いまだにその「そこらへんを有名人がウロウロしている」という状態に、慣れることができない。いちいち「うわ!」ってなる。だからネタにしたくなる。ただ、場所が渋谷とか新宿なら、書いてもそんなに差し障りないと思うが、そのあたりに住んでいると推測される場所だったら、書くのはなしだと思うのでがまんする。学芸大学とか、桜新町とか。下北沢はセーフ、梅ヶ丘だったらダメ、くらいの感じだろうか。同じ理由で、特定の店に通っている、というのをばらすのもアウトにしている。

 

  でも本当は書きたい。という衝動に、コラムとかのネタに詰まった時に、よくかられる。ジョギングしていると毎朝のようにすれ違う、仲良く犬を散歩させている某芸人とその奥さんとか。よく行く銭湯で時々出くわす某ミュージシャンとか。このミュージシャン、昔一度インタビューしたきりで、幸い向こうは僕の顔を覚えていないが、サウナでふたりきりになった時は、それでも気まずかった。

  多くのミュージシャンが通っていて、その関係で僕も何度か行ったことがある下北沢の某飲み屋は、ミュージシャン以上に役者がいて、毎回「うわ、××がいる!」「ああっ、○○が入って来た!」ってなる。

  時々行く渋谷の居酒屋は、映画関係の人が多くて、三回に二回は某有名監督がカウンターで飲んでいるし、それ以外の人もいろいろ見かける。とても有名な某俳優の親子がカウンターにいて、気づかないフリで知人と飲んでいたら、向こう(親の方)から「ねえ、おにいさん」と話しかけてきて、「うわ、これは気づいている前提で答えた方がいいのかしら? 気づかないフリの方がいいのかしら?」と、とてもうろたえたものです。

 

  ああ、ネタにしたい。でも自粛。という毎日だが、数年前、「これはネタにされても、本人も自分のせいだと思うだろう」と判断し、書いてしまったやつもある。

  ジョギングしていたら、向かいから武田鉄矢が、両手にハンガーを持って、ぐるぐる振り回しながら歩いて来たのだ。

  びっくりした。武田鉄矢である、ということ以上に、『刑事物語』そのままのハンガーヌンチャクであったことに。しかも一回ではない。その後、何度もすれ違った、「ハンガーあり」で。彼は行き交う人たちと、笑顔で言葉を交わしている。僕も一度目が合ったが、にこやかに会釈をされた。

  なんで今またハンガーなんだろう。っていうかこれ、もうフリじゃない? 「さあネタにしたまえ」って話じゃない? うーん、でもウェブだとちょっとあれかも、じゃあ紙ならいいか。と思って、kaminogeの連載コラムで、ネタにさせていただいた。

  で、書いたと思ったらばったり見かけなくなった数日後、「ステージナタリー」でその理由を知ることになる。武田鉄矢、福岡博多座の芝居で、29年ぶりにハンガー・アクションをやることになったので、毎朝のウォーキングの時に振り回して、感覚を取り戻していたのだという。で、本番が近づいて福岡に行ったから、見かけなくなったのだった。

  その囲み取材の記事によると「ハンガーのせいで仲良しだった犬が全然寄ってこなくなった」とのこと。「いつもすれ違うおっさんライターが驚いていた」とも言ってほしかった。言わねえよ。

 

  それから。これも数年前、そしてこれも朝のジョギングの時。やけに派手なTシャツを着たスリムなおっさんが走って来る。あ、あれ、FM802のTシャツだ。じゃあ、関西人なのかな。それか、業界人なのかな。

  と思っていたら、「兵庫くん!」と声をかけて来た。関西人で業界人だった。ウルフルケイスケさんでした。

  これもすぐkaminogeでネタにした。ケーヤン、走るたびに「今日は駒沢方面へ、7キロ」みたいに、場所も含めて自らツイートしているので、書いても問題なかろう、という判断でした。なお、ケーヤン、最近はほぼ一年中ひとりで全国を回っておられるせいか、全然出くわさなくなりました。

「捨て酔っぱらい」したことあります?

  酔いつぶれた連れを放置して帰る。というの、そんなにめずらしくないことなんでしょうか?

  先日、初めてそういう光景に出くわしてびっくりしたのでした。「捨て犬」「捨て子」ならぬ「捨て男」、もしくは「捨て酔っぱらい」とでも言いましょうか。

  行きつけの焼き鳥屋で飲んでいたら、すでにかなり飲んだらしい男3人が入って来た。見たところ、3人とも20代後半。ひとりが「俺のこと憶えてますか?」と大声で女将に問いかけ、女将が「ああ、××さんでしょ、何度か来てくれたよね」などと答えている。

  まずその××さんが、注文したハイボールが出て来る前にカウンターにつっぷして眠り始め、まもなくその隣の男もつっぷし、起きているのは端のひとりだけになった。で、しばらくしたら彼は先に帰って行き、つっぷした男ふたりが残される。

  終電まで1時間を切ったあたりで、あとにつっぷした方が目を覚ました。で、女将に話しかけている。

 「俺、離婚の危機なんですよぉ」

 「ダメですよ、ちゃんと連れて帰ってくださいよ」

  なんで急に「俺、離婚の危機なんですよ」とか言い出したのかわからなかった僕は、そのひとことで「こいつ連れを置いて帰ろうとしている」と理解した女将に「さすがプロ!」と思ったが、感心している場合ではない。

 「本当にもう帰らないと離婚されるんです」と食い下がる男。「あと20分で閉店だから。私も帰るんだから困ります」「でもなじみなんでしょ?」「いや、ずいぶん前に二、三度来たことがあるだけです!」──。

  思わず見かねて「いやいやいや、ありえないでしょ!」と加勢する。「家どこなの?」「俺、明大前です」「いや、あなたじゃなくて、このつぶれてる人!」「梅ヶ丘です」「なら途中じゃん! タクシーで落とすとかできるじゃん!」とつぶれている男を無理矢理起こし、肩を貸して店の外に出した。彼を抱えながら、置き去り未遂男はヨロヨロと去って行く。

 

  仕事関係とか会社の先輩後輩とかというよりも、学生時代の友達3人が集まって飲んだ三軒目、みたいに見えたが、しかし、つぶれたからって置いて帰る? 友達でしょ?

  いや、先輩後輩でも、仕事関係でも、置いて帰らないか、つぶれた人。僕は30年以上にわたって日々酒に飲まれる生活を送ってきたので(少しは恥じろ)、つぶれたこともつぶれられたこともあるが、置いて帰られたことも置いて帰ったこともない。

  以前勤めていた会社で、新年会とか送別会とかの席になると……いや、そういう時でなくても、とにかく飲む機会があると、過剰にアルコールを摂取した末に、丸太ん棒のように昏倒することをライフワークにしている後輩がいた。やむなく誰かが家まで搬送することになるのだが、僕はそんな彼を、住所を知らないのに送って行ったこともある。

  深夜作業の時、タクシーに相乗りして帰宅することがよくある彼の上司の、「いつもこのへんで下ろす」という言葉を頼りに、ふたりがかりでそのあたりまでタクシーで連れて行き、下りたはいいが家がわからず、昏倒した丸太ん棒を道端に置き、「確か公団だって言ってた」というヒントを頼りに、その近辺の公団っぽいマンションを片っ端から探し、ポストに彼の苗字を発見、その部屋の前まで担いで上がり、彼のカバンから鍵を探し出して差し込む。開いた! というわけで、ベッドに転がして帰宅したのだった。

  そこまでしなくてもいい気もするが。でも、そのへんに捨てとけないし。丸太ん棒になったのが、お店じゃなくて道端だったら捨てたかな。いや、でもなあ。

 

  なお、ふたりを追い出したあとの、女将のひとことにもしびれた。

 「うちで酔っぱらったんなら面倒みるけど、よそで酔っぱらってきた人は知らない」

『相席食堂』奥田民生&手島いさむ登場回がめちゃくちゃおもしろかった

  好評につき、日曜深夜から火曜の『ナイトinナイト』枠(あの『探偵! ナイトスクープ』を筆頭に人気番組が並ぶ23:22からの枠)に引っ越し、番組の尺も25分から60分になった大阪ABC朝日放送の千鳥の番組『相席食堂』。

  その移動して一発目の4月2日の放送、ゲスト:ユニコーン奥田民生手島いさむの回が、すんげえおもしろかった。テレビを観てこんなに声を出して笑ったの、久々な気がします。

 

  まず奥田民生が出てきた瞬間に、ノブが「ちょっと待てぃ!」ボタンを押して「民生じゃあ! ほんまの大物呼んでどうすんじゃ!」。民生「出していただけるものなら出たい、というお願いを、こちらからしたと思うんです」。

  「ユニコーンの結成の秘密に迫るドキュメンタリー」ということで、OTがバイトしていたスタジオ、SUZUYAがあったあたりのエリアからスタート。最初に、そのSUZUYAのすぐそばの楽器店のマルヤ(昭和の広島の中高生は、バンドを始める時まずここに来た)に立ち寄ると、手島いさむが待っていて、そこからふたりでの行動になる。

  そのSUZUYAのオーナーの、かったんこと片山さんが、別の場所にオープンして現在も営業しているスタジオ、5150に行き、その3人で、民生がユニコーンの前にやっていたバンド(ギターはかったん)、READYが唯一作った1985年の6曲入カセットテープ『TO THE SECOND TO THE STAR』の1曲目“KEEP ON HONEY”をちょっと聴く。テッシーと川西さんがやっていたThe Stripperの「ONE NIGHT BOOGIE SHOW」も、ちょっと聴く。

  そのあと通りすがりのお好み焼き屋に入り、ユニコーンのファンクラブに入っているという、その店の奥さんと相席成立。ポン菓子のお店に立ち寄ったり、OTの同級生が営んでいるお好み焼き屋に行ったり、テッシーと川西さんでOTを口説いたライブハウス、ウッディ・ストリートの楽屋口(の跡地)に行ってみたり、出演したことがある広島県民文化センターの脇を通って、よく通っていた木定楽器店に行って、お店の大石さん(この方も昔からの知り合い)に会い、テッシーが74万円のレスポールを試奏する──。

 

  キモはふたつ。まず、OTひとりでなく、テッシーが一緒だったことが、功を奏しまくっていた。『UC100V』のプロモーションで、大阪や広島などをこのふたりで回った時に撮影したからだろうが、千鳥のふたり、テッシーをおいしくしてくれることくれること。

  マルヤでギターを買えと勧められ、「Suicaしかないんよ」と答えたあたりからエンディングまで「ちょっと待てぃ!」だらけ。後半には「さっきからテッシーでしか止めてないんよ」。

  テッシーもOTも途中でロケに飽きる(大悟「テッシーが機能してない。ただお好みを食っとるだけ」)→後半でテッシーが生き返る、という街ロケに不慣れなふたりの行動を、ノブ&大悟が逐一拾っていくさま、大爆笑だった。

  ただ、ノブ&大悟の「拾い技」がないと生まれ得ない笑いだらけだった、とも言える。改めてふたりの腕のすごさに唸りました。いや、この番組いつもそうだけど、普段は仲間の芸人とかがゲストのことが多いので、ここまで「拾い技」をフル回転させなくても成立している、と思う。

 

  あともうひとつ。これは特に、この番組のファンというよりもユニコーンのファンとしての視点からです。

  SUZUYAもマルヤも5150もREADYのテープも、過去いろんなメディアで紹介されてきたので、ファンはみなさんご存じだと思うが、問題はREADYのテープ。あのジャケは何度も紹介されているけど、実際にその収録曲が電波に乗って流れたこと、これまであったっけ? もしなかったとしたら、これ、すんごいレアな機会だったんじゃないか? という。

  一回解散した時に出た『THE RUST OF UNICORN VIDEO Vol.1・Vol.2』とかに、ちょっとでも入ってたっけ……入ってなかった気がする。ご存知の方がいらっしゃったら、教えてください。

 

  最後に余談。テッシー、お好み焼きを皿に取って箸で食べるのね、ということを、この番組で初めて知りました。広島の人はコテを使って、鉄板から直接食うのがデフォルトなのです。OTはそうしてました。

 

  もうひとつ余談。これまでいろんなところで自分でも飽きるほどこすりまくった話ですが、私、高校生の頃、SUZUYA・READY・ウッディストリート・マルヤ・木定楽器といった、広島バンドシーンにずっぽり浸かっており、SUZUYAに用もなくたむろし、OTはじめ先輩バンドマンたちのパシリ的な具合になりながら、青春を謳歌していました。

  で、READYの『TO THE SECOND TO THE STAR』、レコーディングから完成までの作業をすべてSUZUYAでやっていたので、カセットのダビングとか、中に入れる歌詞カードのコピーを切って畳んで折り畳んだりする作業とかを、手伝いました。で、完成したものを、500円で買いました。

  その時はなんにも感じなかったけど、大人になってから「あれ? くれてもよかったんじゃない?」と、思いました。

  今でも持っています。

『アリー スター誕生』の公開が終わったので

  『アリー スター誕生』、さすがに、そろそろ、だいたい公開終わりましたよね。

  というタイミングになるまで、以下のことを書くのは控えていました。なんでかというと、批評とか批判というよりも、限りなくいちゃもんに近いものである、という自覚があるからです。すみません。

 

  まず前提として、とてもとてもいい映画である、ということは言っておきたい。試写で一度観たが、細かいところまでもう一度観たくて(「聴きたくて」もありますね)、公開になってから、映画館に足を運んだほどだ。

  レディー・ガガが芝居できるのは予想の範囲内だったが、ブラッドリー・クーパーの「芝居もできるミュージシャン」としか思えない本物っぷりにはびっくりしたし、「初監督作品でこれ!?」っていうことには、もっとびっくりした。あのライブのシーンの撮り方の見事さといい、どう展開するか観る前からわかっている古典的なストーリーをこんなに切実に描くとは!と言いたくなる演出といい、すばらしいところはもう本当に多々ある、ありすぎるくらいなんだけど、どこがどんなふうにすばらしい映画なのかは、すでにあちこちで書かれたり語られたりしているので、くり返しません。

  特に、TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の『週刊映画時評ムービーウォッチメン』の宇多丸の批評。いつもだけど、僕などでは到底読み解けないところまで鋭く解説されまくっていて、聴いて唸りました。

  番組サイトに書き起こしがアップされています。https://www.tbsradio.jp/330018

 

  さて。そんなすばらしい映画なんだけど、ひとつだけ、どうしても、気持ち的に乗り切れないポイントがあった。

  アリー(レディー・ガガ)の才能を見抜いたジャクソン(ブラッドリー・クーパー)が、自分のライブに彼女を招待する。アンコールのタイミングで袖に戻ったジャクソンは、彼女に、ステージに出て歌えと言う。最初は抵抗したアリーだったが、覚悟を決めてステージに出て歌いだし、その歌のすばらしさでオーディエンスから大喝采を浴びる。そこからツアーに帯同し、ジャクソンと共にステージに立つようになっていく──という、アリーがスターへの道を駆け上がって行く最初の一歩のところ。

  おい! ってならない? 好きなミュージシャンのライブに行ったら、飛び入りで、知らない女が出てきて歌い始めたら。それがどんなにすばらしい歌であったとしても、「あんたの歌にカネ払ったんじゃねえよ」って思わない? しかもその知らない女、どうやらジャクソンの彼女だな、というのがわかるじゃないですか。

  なんだかなあ。毎晩何やってんのよ。彼女連れでツアーしてたってべつにいいけど、ステージの上は別にしてよ、そういうのは。と思うのが、普通のファン心理ではないだろうか。シーナ&ロケッツみたいに、「夫婦です」ってことが前提でファンになるなら別だけど。

 

  そして。ここまで書いたのは、ライブに来るお客としての視点だが、それ以上に彼のスタッフの方が、「やってらんねえ」という気持ちになるのではないか。と、僕は思うのだった。

  うちの大将がいきなり新しい女を連れてきて、歌わせるって言って譲らない。リハもゲネもなんにもやってない。ちっちゃいライブハウスならまだしも、スタジアムなのに。音響や照明の段取りはグチャグチャ、進行もぶっ壊れる。

  たとえば、彼の友達である人気アーティストが飛び入り、とかなら、お客さんが喜ぶから、いろんな無理を押してでも、やる価値があるのはわかるけど。そうじゃないじゃん。お客からしたらわけわかんねえよ。いくら大将でも! というですね。

  僕は普段からライブ寄りの仕事が多い音楽ライターで、イベンターとかライブ制作とか舞監とかローディーとか、つまりステージまわりのスタッフのみなさんの仕事ぶりを見ていつも感銘を受けているので、よけいにそのあたりが気になってしまうのだろう、とも思うが。

  でも、青田典子だって、ソデに戻ってきた玉置浩二とチュッチュするくらいで留めてるじゃないですか。玉置浩二も「典子、一緒に歌おう」って「悲しみにさよなら」をデュエットしたりはしないじゃないですか。あんなにファンに対して強気な人でさえ……いや、待てよ。あのふたりのデュエットだったら観たいかも、おもしろそうだから。いかん、思考がとっちらかってきた。

 

  ただ、こういう方向での「大スターの公私混同」に対して、欧米は日本よりも寛容なのかも、という気もする。それこそ、プラスティック・オノ・バンドの頃のジョン・レノンのファンとか。ポール・マッカートニーが新しく組んだバンド(ウィングス)に、カメラマンだった奥さん(リンダね)がメンバーで入っていることを知った時の、ポールのファンとか。

  どっちも僕は全然後追いなので、リアルタイムではどんな感じでファンに受け入れられたのか、あるいは受け入れられなかったのかに関しては、リアルにはわかりませんが。

 

  そこにさえ目をつぶれば、すばらしい映画です、『アリー』。

  というか、そこぐらいしかありません、気になったところ。

デヴィッド・ジャガーの件

  放送され始めてもうずいぶん経っているCMなので、今さら何か書くのもちょっとなんなのですが。

  リクルートAirペイのCM。クレジットカードが使えない飲食店や小売店の経営者のみなさん、面倒な手続き不要で、簡単にカードが使えるようにできますよ、それがAirペイです、というやつ。前のシリーズからオダギリジョーが出ているあれです。

  で。2019年3月現在にオンエアされているバージョンは、オダギリジョーがロック・バーの店主で、店じゅうに写真とか貼っていて自分もコスプレしているほど大好きなロック・スター、デヴィッド・ジャガーが、なんと自分の店に飲みに来た。しかし、カードが使えないがために、彼らは出て行き、近所のチェーン店の居酒屋に入ってしまった、というストーリー。ストーリーってほどでもないか。

  まあとにかくそんなような内容で、もう何ヵ月も流れ続けているんだけど、目に入るたびになーんかモヤッとするのだった。で、何度観てもそのモヤッが薄れないので、なんで俺はモヤッとするのか、頭に浮かぶことを書き出してみればちょっとは整理できるんじゃないか、と思ったのだった。

 

  さて。まず、誰もが最初に気になるポイントだろうが、デヴィッド・ジャガーが架空のロック・スターなので、観る側が「すごい!」ってなりにくい。映画やドラマならいいけど、コマーシャルという設定では「そういう大物ロック・スターが存在するのか、このCMの世界では」という前提を、瞬時に共有するのは難しい。そうであることが映像の中で説明はされているんだけど、だからって一緒にパッと気持ちを切り替えられない。

  だったら、本物の海外ミュージシャンを起用すればよかったのに。カネがかかるから無理か。いや、でも、たとえばレディー・ガガとかミック・ジャガーとかはハードルが高すぎるとしても、もうちょっと手の届きそうなランクで誰かいそうじゃない? サントリーBOSSのCMなんて、トミー・リー・ジョーンズが長年出続けてるんだから。

  いや、待てよ。いないのかもしれない、そういうちょうどいい人。たとえばエド・シーランが出ても、マーク・ロンソンでも、あるいはサム・スミスとかアリアナ・グランデだったとしても、家でテレビを観ている人たちの大半は、この外国人が誰なんだかわかりませんよね。

  じゃあ日本人の大物にすればよかったんじゃない? 矢沢永吉とか。桑田佳祐とか。と、書いてみるとわかる。このあたりの国内の超大物ロック・スターって、自分も普通にCMに出ているから、観る方も慣れていて「うわ、すごい人が店に来た!」という気持ちになれないんですね。本当にあなたの店に来たら、そりゃあもう大騒ぎでしょうけど。

じゃあ誰だったらありなの? 音楽じゃなくてもいいや、俳優でもタレントでも。たとえばビートたけし、海外まで名が知られた大物だけど、それこそCMばんばん出てるしなあ。じゃあ誰? そういう、雲上人みたいな大物って……思いつかない。美空ひばりとか、石原裕次郎とか、そういう、本当に今は雲の上の昭和のスターぐらいしか。昭和のスターといえば長嶋茂雄、と一瞬思ったが、セコムのCMに出てたしなあ。

  つまり。このような「ものすごいスターが一般市民の生息エリアに現れてびっくり」という設定のCM自体が成立しにくい時代に、いつの間にかなっているのだなあ。というような結論に至りました。今のところですが。

  そもそも、デヴィッド・ジャガーみたいな、もう見るからにロック・スターですよ、みたいな格好のミュージシャン、今はいないし。

 

  あともうひとつケチつけると、オダギリジョーにとってデヴィッド・ジャガーが、コスプレするぐらい大好きな存在だったら、対面した瞬間の第一声で、「デヴィッド・ジャガー!」って名前を言いませんよね。「うわあああ!」とか「ファンですぅ!」とかになりますよね。

  なのになんで名前を言わせたのか。彼の名前がデヴィッド・ジャガーであることを視聴者に知らせるためですね。というようなディテールにも、モヤッとするのかもしれません。

 

  にしても、そもそもなんでこのような内容のCMを作ろうと思ったんだろう。と考えていて思い出したんだけど、ローリング・ストーンズのいちばん最近の来日の時(2014年)、代官山のロック居酒屋、立道屋に、突然ミック・ジャガーが娘と一緒に飲みに来た、という事件、ありましたよね。店主がそのことをブログに書いて、話題になったやつ。

  このCMを作った人、そのことを知って発想したのかもしれない。違うかもしれないけど。

  立道屋、音楽業界とか映画業界の人がよく行く店で、私も昔、何度か行ったことあったので、びっくりしました。

同じことを二回書くのはありでしょうか?

  と、同業者にも問いたいし、読む方々にも訊きたい。

  たとえば、芸人さんが同じおもしろエピソードを複数の番組でしゃべるのは、べつに普通ですよね。もうひとつたとえば、千原ジュニアが日曜深夜放送(東京では)のケンドーコバヤシとのトーク番組『にけつッ!!』でしゃべるエピソードが、週刊SPA! の彼の連載『大J林』の内容と同じ、ということがよくあるが、これもべつにいいと思う。媒体が違うし。

  80年代のビートたけしは、まず『オールナイトニッポン』でしゃべって、そこでウケがよかった話をテレビに持って行く、ということをよくやっていた。あれなどは、むしろ、テレビでその話が披露されるたびに、先にラジオで聴いていた自分を誇らしく思ったものです。

 

  では、ダメなのはどんなやつか。たとえば、ふたつのメディアから同じアルバムのレビューを頼まれた、あるいは同じアーティストについて書いてくださいと頼まれた、という時に、まったく同じことを書くのは、なしだと思う。同じ切り口だけど書き方が違うとか、一部かぶっているところはあるけど半分以上は違う内容だとか、そんなふうにして完全に同じにはならないように書かなければいけないでしょ、という。

  とあるライターにこれをやられて、「この間、☓☓に書いておられたのと同じですよね。それは困ります」と言ったらブチキレられた、という話を、昔、知人の編集者からきいたことがある。「なんてひどい!」と、素直に思ったものです。

 

  つまり、自分の経験したエピソードなんかの事実に基づいた話はいいけど、論旨や切り口を自分で考えて書くものに関しては、まったく同じことを二回以上書くのはなし、ということのようですね。と、ここまで書いてみて思ったが、なんでうだうだこんなことを言うておるのか、というとですね。

  私、音楽雑誌とかに何か書いたりするようになって28年ぐらい経つのですが、このたび初めて「同じことをもう一回書きたい」という衝動にかられたのでした。

  特定のアーティストの、「俺はここがいいと思う」「俺はここが好き」というポイントに関しての、短いテキストです。そのアーティストの作品に関するレビュー的な記事の依頼が来て、その作品に触れている時に「あ、あれ、もう一回書きたい!」と、唐突に思い出したのだった。

  理由はふたつ。まず、その切り口を思いついた時、自分がそれをとても気に入ったこと。そしてふたつめは、それを書いたのが10年ぐらい前で、しかもそんなにメジャーではない場所だったので、そもそも読んだ人が少ないだろうし、読んだとしても今でもそれを憶えているという人は、限りなくゼロに近いのではないか、と思われることです。

  要は、せっかく思いついたのにもったいない、埋もれているなら掘り起こしたい、という気持ちなのでした。決して「同じことを二回書いて楽したろ」という理由ではありません。このことに関して、こんな1円も発生しないブログを延々と書いている時点で、「楽したろ」とは逆であることが、おわかりいただけると思います。

 

   向井秀徳って、同じ歌詞をいろんな曲で使うじゃないですか。「くりかえされる諸行無常 よみがえる性的衝動」とか。以前、確かNHKの番組だったと思うが、「なんで何度も同じ歌詞を使うんですか?」と問われた彼は、「何度も言いたいんですよ!」と、簡潔に答えていた。

  それと同じようなことかもしれない。違うよ。そんないいもんと自分を並列にすんじゃねえよ。

 

  で、結局、がまんしきれずに、書いて送ってしまった。

  編集部はまず間違いなく気がつかないと思う。で、後日、これが世に出た時、もし「これ昔おまえが書いたやつと一緒じゃねえか!」と指摘されたら、「ばれた! みっともないことした!」という恥ずかしさよりも、「そんなの憶えててくれたんだ?」という喜びの方が勝るだろうなあ、どう考えても。じゃあいいや。と、判断したのでした。

 

  って、自分の中で完結したんなら、人に問うんじゃねえよ。という話なんだけど、「椎名誠は自伝的サラリーマン小説を何作も書いてるよなあ」とか、「伊集院光がラジオでたまにする、若くして亡くなった友達=近藤くんの話、こっちは何度も聴いている上に彼の著書『のはなし』シリーズも読んでいるから『ああ、あの話か』って思うよなあ、でもそれ不快じゃないしむしろ楽しいよなあ」とかいうふうに、「同じ話をこすること」に関して、いろいろ思い出したり考えたりしたので、何か広がらないかしら、と思って書いてみたのだった。

  そしたら大して広がらなかったのだった。