兵庫慎司のブログ

音楽などのライター、兵庫慎司のブログです。

ユニコーン『服部』の本が出ました

  「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」という本が、11月21日にリットーミュージックから、発売になりました。

  ABEDON、EBI、川西幸一手島いさむ奥田民生、当時のマネージャー:原田さんと銀二郎さん、ディレクター:マイケルさん、プロデューサー:笹路正徳さんなどなど、『服部』に、もしくは『服部』の時期のユニコーンに関わった、メンバーとスタッフ総勢20名以上にインタビューをして、『服部』とはいったいなんだったのか、いかにとんでもない作品だったのか、そしてそのとんでもなさはどのようにして実現したものなのか、などを、解き明かしていく本です。おかげさまでとても順調に売れていて、評判もいいようです。ありがとうございます。

 

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ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー リットーミュージック刊 1,800円+税

 

  この本、4年前にフラワーカンパニーズの本を作った時の編集者が、「やりません?」と、僕に振ってくれた仕事である。「『服部』から30周年ってことで、こういう本を考えついて、企画書を作って、今、SMAにオファーしてるんですよ。もし通ったら兵庫さん、どうですか?」と。

  ぜひやりたいです、と答えた。が、正直、まず通らないだろうなあ、と思った。

  なんで。めんどくさいじゃないですか。僕がじゃなくて、インタビューに答えなきゃいけない本人たちと、スタッフのみなさんが。

  だって30年も前の話だよ? 孫とか余裕でできる年月よ? 憶えてないでしょ、そんな昔のこと。メンバーにとってもスタッフにとっても『服部』は、きっと、とても特別なアルバムだろうとは思う。思うがしかし、そのあとメンバーは、ユニコーンでもそれ以外でも、何作も何作もアルバムを作ってきているわけで。スタッフだってそうだし……いや、スタッフはユニコーンの仕事だけしているわけじゃないから、なおさらそうか。

  この本を出したら間違いなく100万部売れて、SMAがとんでもなく儲かる、だからそれでも出す! というのならわかるが、まずそんなことは起きないし。申し訳ないですが。

 

  でも通った、企画。びっくりした。で、もっとびっくりしたのは、インタビューのオファーを出した総勢21人、誰にも断られなかったことだ。全員がOKしてくださった。感謝です、ありがとうございます、と言うほかありません。

  そして、インタビューして、さらにびっくりしたのは、メンバーも、スタッフも、「昔のことだしなあ」とか「憶えてないなあ」とか言いながら、話を訊いてみると憶えてるのね。もしくは、忘れていても、しゃべっているうちに思い出したりするのね。

  で、ご本人たち、お互いにとっても、たぶん意外な事実なんじゃないかなこれ、当時はそれぞれ知らなかったんじゃないかしら、みたいなことが、ポロポロ出てきたりするのだ。

 

  たとえば。ちょっと本文から引用すると、「君達は天使」の後半のテンポが上がるタイミングで、テッシーのギターが急にバカでかい音でギャーン!と入ってくるところ。テッシー曰く「あれ、録ってるほうは、なんでこういう音がするのかわかってないと思う。俺しかわからないはず」だそうです。

  というようなことが、演奏面でも、コンセプト面でも、ジャケットなんかのアートワーク面でも、メンバー間・スタッフ間のコミュニケーション面でも、プロモーション面でも、マネージメント面でも、ミュージック・ビデオ関係でも、ツアー関係でも、いろいろあるわけです。

  というのが、とにかく刺激的な仕事でした。

 

   メンバーも、「こういう記憶ものにいちばん強いのはテッシー」というのが5人共通の見解だが、意外と「川西さんだけ憶えていたこと」があったり、ABEDONの「ユニコーンに入るまで」も訊いたらあまりにもおもしろかったり(前にロッキング・オン・ジャパンで2万字インタビューやったから知ってたはずなのに、それでもおもしろかったのです)、というようなことが、いろいろありました。

 

  リットーミュージックのサイトはこちらです。ぜひ。

https://www.rittor-music.co.jp/product/detail/3119343001/

 

  あ、あとひとつ余談。

  この本、僕のクレジット、表紙は「取材・文 兵庫慎司」ってなっているんだけど、上のリットーのサイトだと「著者」という肩書になっている。それがどうも、何かこう、申し訳ないというか、「おい!」と言いたくなってしまう、自分に。

  リットー的に、サイトに「取材・文」って書くわけにはいかないし、著者が誰なのかはっきり記す必要があるんだろうから、そう書くしかしょうがないのはわかるんですが。

   でもねえ。だってこれ、ユニコーンの本じゃないですか。まあ、じゃあユニコーンが著者なのか、と言われると、そうクレジットできないのはわかるが。でも、しゃべってるの俺じゃないし。メンバーとスタッフだし。

  それをまとめて地の文を書いたのは私ですが、インタビュアーが著者を名乗っていいのは、たとえば吉田豪がプロレスラーにいっぱいインタビューしている本とか、田崎健太の佐山サトル長州力勝新太郎の本とか、そういうのならセーフだけど……という気がしてしまうのだった。

  何か、すみません。

チュートリアル徳井申告漏れの件で考えた、「『面倒力』の脅威」について

  チュートリアル徳井義実の申告漏れ。7年で1億2千万円という金額や、個人的な旅行代や洋服代を経費として計上していたのが、所得隠しと認定されたことに関してはともかく、びっくりしたし、理解不能だったのは、2016年から2018年までの3年間、収入をまったく申告していなかったことだ。

  そんなの、僕程度の収入の奴でもありえない。ましてや、長年テレビに出続けている、大金を稼いでいることが誰の目にもあきらかな芸能人なんだから、そんなの一撃で刺されるに決まってるじゃないか。というかよく3年も刺されなかったな。その方が不思議だ。

  とにかく、なんで税務申告しなかったの? 会社組織にしてたのに! 税理士いるでしょ?

 

  しかし。10月23日の夜、徳井が開いた記者会見での言葉を読んで、腑に落ちた。

  あ、だからみなさんも納得してね、ということではありません。あくまで僕個人が感じたことです。

  徳井はこう言ったのだ。

 

 「納税の意思はあるが、想像を絶するルーズさによって先延ばしにしてしまい、3年経ってしまった、ということです」

 

  わかる!

  いる、そういう人!

  というか、ある! 俺の中にもそういうとこ!

 

  と、正直、思ってしまったのだった。

  松尾スズキの最初の著作であるエッセイ集『大人失格 子供に生まれてスミマセン』(1995年・マガジンハウス刊、現在は光文社知恵の森文庫)に、『「面倒力」の脅威』という回がある。

  それまでカーテンというものを買ったことがなかったが、日当たりのいい部屋に引っ越したらまぶしくて不眠に悩まされた、でも数ヵ月がまんした、理由は面倒くさかったからだ、という話から始まって、

 「あきれてはいけない。面倒の力には侮り難いものがあるんですってば」

   と、「面倒力」の脅威について綴られていくのだが、まさにこれだ。「面倒力」だ。

  松尾さんはその「カーテン」の他にも、「部屋の4本の蛍光灯のうち3本が点かなくなった(2週間がまんしたそうです)ということと、2年前に買ったソファベッドが身体に比べて小さい(でも面倒だから買い換えない)という自身の例を挙げておられるが、自分に置き換えると、もう本当にいっぱいある、「面倒力」に負けて放置してしまっていることが。

  邦楽までは終えたが、洋楽に入るところで力尽きて半年経過の、仕事部屋のCDラックの整理とか。なんかいつの間にかヒビ入ってたけど、今んとこヒビだけなのでそのまま静観して8ヵ月が経つ、ベランダのガラス戸とか。

 

  という中でも、税務の申告って、相当高いレベルでの面倒だと思うのですね。

  僕などは確定申告の面倒さに負けて、すべて人に任せてしまっているのだが、それでもその「任せる」前の作業すら面倒に感じるくらいだ(任せてる人が読んだら怒るだろうな、これ)。徳井の場合、金額がでかい分、僕など比較にならないほど面倒だろうし。

  で、彼が「面倒力」との戦いに弱い人だとしたら。3年くらいほったらかし、というのもありえるなあ、と、納得してしまうのだった。

  税理士にはせっつかれていたそうなので、「ああ、ヤバいなあ、やらなあかんなあ、でもめんどいなあ……」というような。

  本気で脱税したかったわけではないと思う。だったらもっとうまくやるだろう。単に、本当に、「面倒力」に負けていたのではないか。

  なんだったら、税務署に言われたら払えばええわ、そこまで追い込まれんと動かんわ俺は、という境地にまで達していた可能性もある。

  税務署に言われたら、社会にその事実が晒されるし、追徴課税(3,400万円だったと報じられている)も食らう。その社会的制裁+3,400万円と面倒を天秤にかけて、面倒が勝っていた、という。

  すごいですね、「面倒力」って。

 

   と、だんだん彼をかばいたくなってくる、「面倒力」に負けがちサイドの自分なのだった。

  まあ、「ありえない!」という人が大半だろうけど、「金額でかいけど『ありえない!』とは思わない」という奴もいますよ、という話でした。

 

※10月26日追記

  本日、吉本興業のサイトにアップされた「チュートリアル徳井義実の税務申告漏れに関するご報告」によると、2009年の会社設立以来全然税務申告してなくて、税務署に指摘されて申告する、ということが3年に一回のペースで二度あった上に、その二度目の方は督促されても税務申告しなかったので、銀行預金を差し押さえられたそうです。

  で、そのまた3年後が今回の件である、という、何かもう、「面倒力」どころのレベルではない話だったのでした。

  すごいなしかし。預金を差し押さえられるまで払わないって。で、そのあとまたくり返すって。

  私の妄想の及ぶ範囲ではありませんでした。失礼しました。

日本の俳優、美男美女過ぎ問題

  もう1年近く前になるが、日本の俳優が、男前だらけ過ぎることについて、このブログに書いたことがあった。

これです。

http://shinjihyogo.hateblo.jp/entry/2018/12/17/105515

 

  まあそれを言い出したら、女優なんてもっとそうだし、日本だけじゃなくて海外だってそうだし(韓国映画はそうでもなかったりするけど)、要は、言ってしまえば、美男美女じゃなければないだけ稼げる俳優に育つ確率が下がる、だからどこの事務所も美男美女を探す、というのは、まあそうなるよなあ、とは思う。

 

  思うがしかし、映画にしてもドラマにしても、「そこまで美男美女揃いじゃあ、リアリティってもんがねえよ」と感じてしまうことは、やっぱりよくある。

  たとえば、9月に終わったNHK朝の連続テレビ小説なつぞら』。賛否両論いろいろあったこのドラマだが、僕は毎朝楽しく観ていた。朝7時半からNHK BSプレミアムで一回、8時からNHK総合でもう一回観ていたくらいなので、熱心な視聴者だった、と言っていいと思う。

  しかし。なつ(広瀬すず)たちが東洋動画で働いていた頃は、井戸原さん(小手伸也)とかいたからまだよかったが、マコさん(貫地谷しほり)が立ち上げたマコプロダクションに、主要な登場人物がみんな移って以降は、さすがに「いくらなんでも!」と言いたくなった。

  広瀬すず中川大志貫地谷しほり染谷将太渡辺麻友。犬飼貴丈。伊原六花。という面々が集まって働く会社。何それ。モデル事務所? え、アニメの制作会社なの? ないわ。ありえないわあ。というですね。

  伊藤修子を投入したのは、そのあたりのバランスをとろうとしたのだと思うが、全然足りない。よしもと男前ランキング最高位2位(2007年)、でもこの中では貴重なリアリティ側の人である麒麟川島とプラスしても、まだまだ弱かった。

 

  と、なんでとうに終わった『なつぞら』のことを今さら蒸し返しているのかというと、その「役者美男美女過ぎ問題」に意識的に向き合っていて、それによって引き起こされる「リアリティない」というデメリットをなんとかしようとしているクリエイターもいるんだなあ。と思わせる映画を、最近、二本続けて観たからなのだった。

  一本は白石和彌監督の『ひとよ』。もう一本は瀬々敬久監督の『楽園』だ。

 『ひとよ』は、佐藤健鈴木亮平松岡茉優の三兄妹とその母親である田中裕子が軸の話なのだが、さすが「イケメンが好きじゃないんですよ」と公言する白石和彌だけのことはある。松岡茉優が「今までに観たことがないくらい汚い佐藤健」と言っていたが、僕が思ったのもまさにそれだった。

  というか、あんたもな松岡茉優鈴木亮平もな! 四人の次に重要な役の佐々木蔵之介もな! と言いたくなるほど、見事に素敵じゃない、どの人も。うらぶれているし、鬱屈しているさまが、表情や言葉や立ちふるまいに出ていて。

   『楽園』の方は、綾野剛は白石作品の『日本で一番悪い奴ら』などで、素敵じゃない役をやるとちゃんと素敵じゃなく仕上がる人だということを知っていたが、杉咲花にはびっくりした。東京の市場でガラガラとワゴンを押して働いていたりする役なんだけど、「こんなかわいい子、働いてねえよ。いたら目立ってしょうがねえよ」という具合には、なっていないのだ。ギリギリのところで「まあ、いるかも」というラインをキープしているのである。なんだキープって。

  言っておくが、杉咲花がかわいくない、というわけではない。めちゃめちゃかわいいが、なんというか、不思議に「いねえよ」感のないかわいさなのだった。ただ、彼女の過去の出演作品がどれもそうだったかというと、そんなことはないわけで、つまりこれは撮る側=瀬々敬久の、手腕の問題なのだと思う。

 

 『ひとよ』は三兄妹と監督のインタビュー、『楽園』はフィルムレビューの仕事があったので、どちらも早めに試写で観たんだけど、そのポイントにおいて同じことを感じたもので、何か書いておこうと思ったのでした。

京都音博で観たNUMBER GIRL

  2019年9月22日、くるりプレゼンツ、今年で13回目になる『京都音楽博覧会』に行った。今年初めてROCK IN JAPAN FES.に行けなかった自分にとって、唯一の、一回目から全回参加できているフェスである。

  その全体のレポートはリアルサウンドに書いた。書いて送ってOKもらってから、けっこう経っているのに、まだアップされていないけど(10月7日現在)、そろそろ上がるのではないかと思います。

 

  今年の『京都音博』の大きなトピックは、復活から3本目となる(はずがライジングの1日目中止で2本目になった)NUNBER GIRLの出演だった。もちろん僕も楽しみにしていた。観た。すばらしかった。あと、前のnever young beachの最後の曲で降り始めた雨が本降りとなり、NUMBER GIRLが始まる頃には大雨、それが中盤を超えたあたりで小雨になって、ライブが終わる頃にはきれいに止んでいたのには、「演出か?」と言いたくなった。

  そのリアルサウンドの『京都音博』のレポでは触れなかった、自分の感想をひとつ、こちらに書いておくことにします。

 

  まず、この日のNUMBER GIRLのセットリスト。

1 鉄風 鋭くなって

2 タッチ

3 ZEGEN VS UNDERCOVER

4 OMOIDE IN MY HEAD

5 YOUNG GIRL SEVENTEEN SEXUALLY KNOWING

6 透明少女

7 日常に生きる少女

8 Tattoあり

9 I don’t know

 

  で。僕が特におもしろいと思ったのは、4人の演奏そのもの、向井秀徳の歌そのものだった。ご存知のように、4人とも解散後も活躍していて、長きにわたって経験を積みまくっているわけで、当時と比べると、ミュージシャンとしてのスキルや経験値、相当アップしているはずだ。

  という状態で4人が17年ぶりに集まったら、同じアレンジで演奏しても、昔とはかなり違った感じになるんじゃないか。「超合金NUMBER GIRL」みたいな鉄壁な感じになっているかもしれないし、落ち着いて飄々とした「超熟NUMBER GIRL」みたいな感じになっているかもしれない。

  というふうに変わっていた場合、俺はうれしいのかな、がっかりするのかな、どう感じるのかも含めて楽しみだな、と思っていたのだが。

 

  見事に昔のまんまのNUMBER GIRLだったのだ。僕がそう感じただけ、という可能性もあるが、でも、デビュー前後から解散まで何度もライブ観ているし、最後のツアーも札幌は観てないけどZepp Tokyoは観た、その僕の耳は「あの頃のまんまだ!」と感じた。

  めちゃめちゃヒリヒリしているし、荒々しいし、必死だし、尖っている。ZAZEN BOYSではもはや合気道の達人みたいな風格を漂わせる向井秀徳は、ここでは少年のようだったし、いつでもどのバンドでもどっしりと曲を支える中尾憲太郎のベースも、ここではやたらと攻撃的に耳に刺さった。

  技術とか経験とか以前に、この4人が集まるってこういうことなんだなあ、というのがわかった気がした。というか、この4人が集まらないとこうならない、ということか。だから中尾憲太郎が脱退すると言った時に解散した、誰かを入れて続けるという選択肢はなかった、ということなんだなあ、と。

  メンバー4人とも、NUMBER GIRLに来るとこうなるんだなあ、これがNUMBER GIRLなんだなあ、バンドっておもしろいなあ、本当に「人間と人間の組み合わせ」なんだなあ、などと、いろんなことを思いました、観ながら。

  そして、しみじみしました。解散の時にロッキング・オン・ジャパン誌でラスト・ツアーの特集記事の編集を担当して、自分もレポとか書いた者としては。

教えてくれとは言ってない

  たとえば。「コードレス掃除機を買いにビックカメラに来ている」というツイートをした有名人が、「それならパナソニックの××がおすすめです」とか「ダイソンは高いから日立の△△がいいですよ」とかいうような、アドバイスのリプだらけ状態になっていることがある。「ウォーキングの時に履いているシューズは?」と尋ねられたので、それに答えたら、別の人から「××というブランドのシューズがいいですよ」というリプが飛んできて、「使ってるものを聞かれたので答えただけで、僕はアドバイス求めてないっす」と、返している人を見たこともある。

 

  すんごいわかる。そうなのだ。なぜそんなにアドバイスしたがるんだ、みんな。そのツイート主が、「コードレス掃除機ほしいんだけど、おすすめありますか?」とみなさんに問うているならわかる。でも、「買いに来ている」って言っただけでしょ。問われてもないのに教えるって何? そんなに教えたいの?

  というのも、すんごいわかる。そうなのだ。教えたいのだ。その人がちょっとでも自分の詳しいテリトリー(この場合だとコードレス掃除機とウォーキングシューズ)に入ってきたら。

  親切心ではないと思う。だって、別に困ってないもん、その相手。じゃあなんで教えたがるのか。教えられる、アドバイスできる、自分は彼の知らないことを知っている、自分の方が詳しい、だから自分の方が彼より上位に立てる、というマウンティング欲が満たされるからです。

  なんで言い切れるのか。自分がそうだからです、力いっぱい。音楽とか映画とか本、つまり自分の仕事に関わってくる範囲のものは、まだ大丈夫だが、それ以外がヤバい。

  ということに気がついたのは、よく行く飲み屋で知り合いになったタトゥーだらけの男に、「この界隈でタトゥーNGと謳っていない銭湯は、こことこことここ」という話を、滔々とまくしたててしまったことを、翌朝、思い出した時だった。

  彼は「サウナ好きなんだけど、この身体なもんで行けないんですよね」とか俺に言ったか? 言ってないよね。「兵庫さん、サウナ好きなんですよね」くらいのことは言ったかもしれないが、だとしてもそれはただの会話の糸口であって、俺のサウナ知識をほしがったわけじゃないよね?

  あああ。やってもうた。というか、そのように冷静になって振り返ると、「やってもうた」だらけじゃないか、俺の生活。以降、酒を飲んでいる時も飲んでいない時も、「訊かれない限り教えたがらないこと」を念頭に置いて、常に自分を信用しないようにしないようにと心がけながら、日々を送っています。

 

  SNSの普及でむき出しになったマウンティング欲と承認欲求って、つくづく厄介だなあ、SNSって本当に、人間の欲望のリミッターを外すツールなんだなあ。と、すんごい今さらだけど、よく思うのでした。

  というか、すんごい今さらであっても、常にそのことに意識的でいないと、いろいろ危険だなあ、と思うのでした。

初めての「ロック・イン・ジャパン・フェスに行かない夏」

  フジロックが終わって月曜に東京へ戻って、さあ次の週末からはロック・イン・ジャパン・フェス。というのが、本来のこのタイミング、8月の第一週末を待つ時期なのだが。

  今年2019年は、ロック・イン・ジャパン・フェスに行くのをやめた。

  ロック・イン・ジャパン・フェスが始まったのは2000年。2014年までは、このフェスを企画制作しているロッキング・オンの社員として、2015年からは2018年まではウェブや雑誌にライブレポを書くライターとして(途中から雑誌だけになったが)=つまり業者として、毎年全日現場に足を運び続けて来たが、今年で20年・今回は2週末で5日間、という2019年に、皆勤記録が終わってしまったのだった。

  行きたくないわけではもちろんないし、他の仕事を優先したわけでもないし、業者として呼ばれなくなったわけでもない……いや、最後のは「と思う」が付くが、とにかく今年に関しては、仕事とかとは別の事情で、最終的に「この二週末に俺がロック・イン・ジャパン・フェスに行くのをあきらめさえすれば、丸く収まるな」「『俺ががまんしなきゃいけない』ってことにさえ目をつぶれば、それが最良の選択だな」という結論に、行き着いてしまった。

  なので、ロッキング・オン社からお声がかかってから「今年は行けないです」と言うのだと迷惑がかかるかもしれないので、呼ばれてもいない時期から「今年は行けないのです」と連絡したのだった。

 

  で。行けないのはもうしかたないとして、8月1日木曜日現在、もっとも心配なのは、フェスが始まってから、自分がどのような精神状態になるのか、ということだ。

  昔ならいざ知らず、ツイッターでフェスの様子は逐一目に入ってくるし、映像の配信などもある。というのがダメな性格なのだ、実は。「行かなくても様子がわかるし、ステージも観れるし、便利でいいよね」というのとは逆で、「なんで俺はここにいないんだあああああ!」となってしまうタチなのです。

 「自分がいないところで、何か楽しそうなことが起きている」という事実は、別にいい。が、「自分がいないところで、何か楽しそうなことが起きている、という事実を知らされる」のがダメなのだ。

  そこに自分が行った結果、楽しかったかどうかはどうでもいい、とすら言える。「そこにいたか、いなかったか」の方が重要なのだ。自分が、年間180本以上ライブに行くのも、1本でも多くフェスに足を運びたがるのも、気になった映画は映画館で観ないと気がすまないのも、同じ理由だと思う。「行くと楽しい」からではなく「そこに自分がいない」という事実にイライラする、とにかく。

  ここまで書いて思った。病気ですね、これ。でも、音楽が大好きで、ライブが大好きで、熱心に足を運んでいるような人と話をするたびに「ああ、俺とは違う」と自覚することは、これまでにもよくあった。みんな「観ると楽しい」「興奮する」「感動する」というプラスのパワーに突き動かされているけど、自分は「観ないとイライラする」「そこにいないことにジリジリする」みたいな、マイナスのパワーに振り回されているなあ、と。いや、音楽、好きなんですよ? ライブ、楽しいんですよ? でも……という。

 

  先日のフジロックの3日目。ここ5~6年は毎年全日行っていたが、事情があって今年は断念した、という友人から「平沢進が大変なことになってる!」とラインが来た。Youtubeの生配信を観ているようだ。「レッドマーキー! すぐ行かないと!」。「無理、俺今ヘブンだから間に合わない」と返事したら「そう! そうなのよ!」と戻ってきた。

  曰く、フジに行けなくてすごく残念だったけど、生配信なら一瞬でステージ移動ができる、現場だったら観れなかったものも観られる、ということが新鮮だ、と。

  ちょっと「あ、なるほど」と思った。フジロックに行ったことのない人が配信を観ても別に普通だろうけど、あの会場の隅から隅まで頭に入っていて(その人はドラゴンドラにも毎年必ず乗るくらいの人です)、どこからどこまでの移動はどこを通って、混んだら何分、天気悪かったら何分、ということまで身体に刻み込まれている人にとっては、こうやってステージを瞬時に移りながらライブを観るというのは、おもしろいだろうなあ、と。

 

  というような気分で、僕は明後日からロック・イン・ジャパン・フェスと向き合えるでしょうか。

  向き合いたいが、無理な気がする。ならばいっそ、すべての情報を絶って、溜まっている仕事にひたすら向き合うべきだと思う。思うが……うー……。

  で、また、その「うー……」が二週末にわたって続く、というのも、ロック・イン・ジャパン・フェスならではですね。

クリープハイプ尾崎世界観のトライアル、“歌い升席”について考える

  2019年10月10日に行われる、新木場スタジオコーストでのクリープハイプのライブに、“歌い升席”が設けられる。

  尾崎世界観が火曜放送のパーソナリティを務めるTBSラジオ『ACTION』の中で、「ライブ中にお客さんが客席で歌うのはありかなしか?」ということが議論のテーマとなり、尾崎が「歌ってもいい席を設けてライブをやるのはどうか」と提案したのがきっかけ。番組発のイベントとしてクリープハイプのライブを行い、そこに「歌い升席」を作るという。

  公式発表によると、「昨今のチケット転売問題への防止策をこのライブイベントに向け本気で考えてみる等、番組を通じて『ライブの新しい形』をリスナーのみなさんと一緒に模索していきます」とのことで、歌う歌わないに限らず、ライブにまつわる問題について考えるきっかけになれば、という意志がうかがえる。

  というか、そもそも尾崎世界観がこの番組でやりたいことのひとつが、それであるようだ。音楽ビジネス、バンド、ライブ等に関する、普段なかなか言う機会がない問題意識を発信できる場として、この番組を機能させたい、という。

 「尾崎の野菜嫌いを直すために自分で栽培してみる」という企画や、「ペタジーニを敬遠した上原の涙について」というトークとか、「黒いマスクについて」なんていう話題と同じように、尾崎、「フェスの公式サイトに上がるライブレポってどうなのかな?と思う」ということについて、しゃべったりしているので。

 

  払ったおカネによってサービスが違う、席が良いだけでなくお土産があったり特別なサービスがあったりする、というのは、すっかりめずらしくなくなった。フェスでは海外だけでなく、国内でもサマーソニックやEDMのフェスなどが取り入れているし、単独公演においても行われている。

  特に、洋楽の大物アーティストの来日公演では、もうそれが普通になっている、と言っていい。たとえば、2019年12月3・4日にさいたまスーパーアリーナで行われるU2の来日公演は、60,000円から15,800円まで、チケットが6種類に分かれている。60,000円の席は「専用入場口、特製チケット、バックステージツアー抽選参加券、開演前飲食優先ご案内」という特典付き。「バックステージツアー抽選参加券」が気になります。「抽選」なのよね? 外れるかもしれないのよね? と思う私は、16,800円のA席を第一希望で申し込んで外れ、15,800円のスタンディング後方になりました。

 

  脱線した。戻します。そのような「金額によって細かく客席を分ける」という興行が、主にドームやアリーナ等の大会場で行われるようになった、とするなら、Zeppスタジオコースト等のオールスタンディングのライブハウスで、まだ一般化はしていないが実験的に行われるようになってきたのが、このクリープハイプの“歌い升席”のように「お客の希望によって客席を(もしくは「エリアを」)分ける)という試みなのかも。と、思ったのでした。

  たとえば、オメでたい頭でなによりのライブには、「デリケートゾーン」と名付けられた、柵や紐などで仕切られたスペースがフロアに設けられている。騒がずにゆっくり観たい方や、オールスタンディングのライブが初めてなので不安な方は、そこで観てください、という。

  Perfumeが大会場でのライブの時に、スタンディングフロアの中に、女性や子供を対象とした専用エリアを設けているのも、同じ理由だろう。オールスタンディングに不慣れな人、モッシュがイヤな人、というだけでなく、そのエリア内なら子供もいられるとか、背の低い女性でも観やすいとか、痴漢の心配がないとか。

 “歌い升席”も、そういうのと同じ……というふうに、話を進めようと思っていたのだが、ここまで書いて気がついた。

  違うわ。そのもうひとつ先の問題だわ、これ。

 

 「デリケートゾーン」や「女性子供エリア」は、映画の「絶叫上映」や「応援上映」と同じだと言える。絶叫したい人は来てね=それ以外の人は来ないでね、暴れたくない人は入ってね=それ以外の人は入らないでね、というふうに、はっきり分かれているので。

  しかし、「“歌い升席”ありライブ」は違う。“歌い升席”の人は思う存分歌っていい、ということは、それ以外の人は思う存分歌っちゃダメ、ということだからだ。

  うわあ。軽い気持ちで書き始めたが、これ、考えれば考えるほど、めんどくさい。それこそ、ロッキング・オンのフェスが、物議を醸しながらそれでも貫いている、「モッシュ・ダイブ等の危険行為をした人は退場」という施策以上に難しいのではないか。

  だって、ロッキング・オンのフェスのそのルールは、「実際にお客さんの身体に障害が残るほどの事故が起きた、二度とこんな事態を起こしてはならないと決めた、だからこうするしかなかった」という、真剣にこの問題に向き合ったがゆえのエクスキューズがあるが、「歌っていいかダメか」という問題には、そんな大義名分、ないし。で、「歌うな、うるさい」という人の希望をかなえることは、「大好きなアーティストと一緒に歌いたい」という人の希望を奪うことなわけだし。

 

  というふうに、とても難しいからこそ、自分の番組で、平場で議論した上で、実際に“歌い升席”を設けてライブを行うことにしたのだと思う、尾崎は。つまり、「みんなの問題」として、考えてもらおうとしたのだと思う。

  知らねえよ、そんな個々の事情に沿ってルールなんか作りたくねえよ、自由じゃなさすぎるじゃん、というふうにケツをまくってもいいのに。と、僕などは無責任に思ったりするが、逆に言うと、そうも言っていられないくらい、尾崎の耳にそういう声が届いているのかもしれない。

  だからといって、「絶叫上映」のように、「全員歌ってOK」あるいは「全員歌っちゃダメ」というライブにすると、相反する希望がぶつかる場所にならない。そうなる場所じゃないと、問題の解決へ向かって何かが進んでいく可能性はない。じゃあ自分たちのライブでやるしかないな、ということなのだと思う。

 

  ちなみに6月25日の放送では、チケットの転売問題についても、ぴあの方を呼んで、じっくり話を訊いていた。

  あと、海外でライブを楽しんでいる人からの、「『おまえは客だから歌うなよ』なんて言ってるのは日本だけ、海外はみんな自由」という投稿も、取り上げられていた。

  それから、「仕事で途中からしか来れない人の席や、遠くから来て途中で帰らなきゃいけない人の席も設けてほしい」という声も届いていた。ここまでくるとさすがに「知らんがな!」と言ってもいいと思ったが、尾崎、「コール&レスポンスとかいいかもしれませんね。『途中で!』『帰ります!』って。途中で帰るのって普通テンション下がるから」と、楽しげに応じていた。

  タフだなあ。頭が下がる思いです。

 

  ちなみに、その翌週の7月2日放送では、「母親のために、50代以上専用席を設けてほしい」というメールも読まれていた。尾崎は肯定的に応じていたけど、「いらんわ!」と思いました、今年51歳としては。

  まあでも、年に180本以上ライブに行く、そのうちのかなりの数がスタンディングである今年51歳は、例外なんだろうな。という自覚もありますが。