兵庫慎司のブログ

音楽などのライター、兵庫慎司のブログです。

水道橋博士『藝人春秋2』について

  2017年11月30日に出た本なので、今頃何か書くのはだいぶ遅いのですが。

 

藝人春秋2 上 ハカセより愛をこめて

http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163907109

 

藝人春秋2 下 死ぬのは奴らだ

http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163907628

 

  ひとつひとつの言葉の選び方、句読点の打ち方、一文一文に込められたネタや引用など、細部までもうとにかく徹底的に詰められた、異様な完成度をの文章を書く、水道橋博士とはもともとそういう人であって(これすげえ時間かかってるだろうな、一度書いてから推敲しまくるんだろうな、といつも思う)、そのことについては昔、書評を書いたりもしたし、読者としても編集者としても(昔、浅草キッドの単行本を作ったことがあるのです)把握しているつもりなので、今さら驚かない。

 

  ただ、下巻にはびっくりした。

  やしきたかじんの章、『橋下徹と黒幕』の章、石原慎太郎VS三浦雄一郎の章。昔、単行本の帯とかで、浅草キッドを「ルポライター芸人」と形容したことがあるが、そのレベルではない。これ、完全にノンフィクション作家の仕事だと思う、博士が読者として傾倒してきた人々と同じ次元の。

  しかも、取材対象に興味を持ったので迫っていく、というのではなく、自分が言わば登場人物として巻き込まれた、だから書くしかなかった、というのがさらにすごい。というか、怖い。べつに本人は巻き込まれたくて巻き込まれたわけではないだろうが、そのことによって、結果的に「ノンフィクション作家もやっている芸人」にしか書けないものになっているし。

  『お笑い男の星座 芸能死闘編』(文春文庫)をお持ちの方は、その中の『爆笑問題問題』と、改めて読み比べてみることをお勧めする。「自分も登場人物のひとりであるノンフィクションを書く」という構造は同じだが、文章といい、その文章に至るまでの調査やファクト・チェックといい、今回の方がはるかにハードコアだ。水道橋博士がこの十数年で何を経験し、どんなことを感じ、考え、行動に移して来たか、その結果どうなったか、ということを表していると思う。

 

  それから、下巻の最後に書かれた、水道橋博士自身の病気のこと。

  なぜ敢えてこれを書いたかについては、本書の中で記述されているが、勝手にひとつ補足させてもらうなら、書かないとフェアじゃないと思ったから、書いたのではないか。人のことをいろいろ書いておきながら、その書いている時期に自身に起きた、触れられたくないところについては何も触れない、というのはずるい、と感じたのではないか。理屈で考えれば、別にずるいことでもなんでもない。でも生理的にそう感じたからそうしたのではないか。

  僕はそんなふうに受け取りました。