松村雄策追悼
というタイトルに、「さん」を付けるかどうか、迷った。
もちろん、個人的なつながりはあるし、一緒に飲んだり、プロレスを観に行ったりもしたし、自分が人生的に危うかった局面で助けられた恩人だったりもするし、基本、頭が上がらない。
という事実は、歴然とあるが、そういう類いのことは、墓前なり、お別れの会なりで(あるのかどうか知らないが、このご時世なので通常の葬儀は難しいだろうな、「近親者のみで」ということになるだろうな、せめて、いつかお別れの会があればいいな、と希望しています)で、手を合わせるとかして、ご本人に伝えればいい。
と思ったので、ここでは、作家(という肩書がもっともふさわしいと僕は思っている)松村雄策について書くことで、追悼の意を表したい。
「これこれこうでお世話になりました、追悼」みたいな、140字以内のツイートで、すませられるものではなかったので、やはり。
僕がロッキング・オン(洋楽の、です。当時、ジャパンはまだなかった)を読み始めた、1982年とか1983年とかの頃、「俺の頭が悪いから理解できないんだろうな」と思う難しい原稿や、「ただただわからない」原稿だらけの誌面における、最初のとっかかりが、松村雄策だった。
シンプルで、とっつきやすい。誰が読んでも意味がわかるし、この人が何を言いたいのかが伝わる。だからのめりこんだし、ここを起点にして、だんだん他の人たちの原稿も読めるようになった。
渋谷陽一のラジオがきっかけで雑誌を読むようになったのは、言うまでもなく渋谷陽一あってこそだが、その雑誌を出している会社に就職して、自分も何か書いたりするようになり……というところまでも、渋谷陽一ありきだが、24年勤めてその会社をやめたあとに、一応「なんか書いて食っている」のは、松村雄策のせい(そう、「おかげ」ではなく「せい」)も大きい、と、僕は思っている。
さすがに、ビートルズは、それ以前から聴いていたが、ドアーズや、ジャックスや、ニック・ロウや、上々颱風などは、松村雄策の原稿を読まなければ、熱心に聴くようには、ならなかっただろう。
同じく、松村雄策がいなければ、新日vsUWFインターの対抗戦を東京ドームに観に行って、バックネット越しに武藤敬司vs高田延彦戦を観て、声をからしたりしなかっただろうし、天龍源一郎が立ち上げたWARに、あんなに足しげく通わなかっただろう。
あと、いい居酒屋を見極める眼も、松村雄策から学んだところは大きい気がする、そういえば。
話がそれた。戻します。
とにかく。自分が中高生当時の、ロッキング・オンの誌面において、いちばんわかりやすくて、いちばん簡単そうで、いちばん「これなら俺にも書けるかも」と思わせてくれたのは、松村雄策の原稿だった。
と、そんなふうに思って何年か経ってから、たまたま株式会社ロッキング・オンに入社することになった僕は、東京に来て、自分の机をもらって、「当然おまえもなんか書け」となって、原稿用紙に向かってから、初めて気がつくのだった。
違う。あれ、「俺でも書けるかも」じゃない。逆だ。むしろ、難しげな、なんか高尚げなことを書いている人たちは、松村さんみたいに書けないから、そうしているんだ、ということに。
そこからあと、じゃあ自分がどうしたか、その結果今どうなっているか、とかは、まあこまごま書いてもあれだから、いいですよね。
ざっくり言うと、あんな領域まで行けるわけないし、もはや行きたいとも思わないが、一応、ひとりで、文章を書くことで食ってはいます。ギリですが。で、ギリだけど食えている要因の、かなり大きなひとつに、松村雄策の影響があります。
音楽を聴いたりして何かを書く仕事を、31年続けているが、その中でも本当に数少ない、自分で「これはいいやつが書けた」と思った原稿のひとつが、ロッキング・オン社から出た『リザード・キングの墓』が、角川文庫に入った時に(1993年8月)、ロッキング・オン誌の「カルチャー・クラブ」のコーナーに書いた書評である。
『正しい立ち食いそばの食べ方』や、『近所で坂口征二を見た、というエッセイ』などに関して、主に言及したのを憶えている。
雑誌は、自分の手元に残っていなくて、読み直すことはできないが、その十数年後に、インタビューで会った作家、津村記久子に、「あ、兵庫慎司だ!」と言われ、その原稿がとても印象に残っている、と誉められ、その縁で、彼女の文庫の解説を書かせてもらったりした。
というのも、松村雄策ありきなんだな、そういえば。
本当にお世話になりました。感謝しています。どうぞ安らかに。
とかそういうのは、墓前なりに行って直で言えばいいんだって、だから。