兵庫慎司のブログ

音楽などのライター、兵庫慎司のブログです。

フジロックに行かない、という人体実験

 を、自分がしていることに、当日=2022年の開催初日、7月29日金曜日を迎えてから、気がついた。

 つまり、当日を迎えるまでは、気がついていなかった。ものすごい一大決心をして、行かないことを選んだ、というつもりは、全然なかったので。だって、昔も、行かなかった年、あったし。

 と思っていたのだが。よくよく思い出してみたら、「行けたのに行かなかった」という選択をしたのは、1997年の第1回だけなのだった。その時は、2日目がサニーデイ・サービス初の日比谷野音ワンマンと当たっていて、「あのフジロックとかいうのに、行く気じゃないでしょうね? 僕だって行きたいのに、がまんするんですから」と曽我部恵一に言われて、サニーデイを選んだ。ちなみに1日目は、奥田民生渋谷公会堂に行った、と記憶している。

 

 で、それ以降は、2000年代の半ば、ロッキング・オン社のフェスの部署にいて、フジの1週間前から会場設営が始まってひたちなかに詰めていた、つまり己の業務として物理的に行けなかった年が、2~3回くらいあったが、考えてみたら、それ以外は、なんやかんやで毎年行っていたのだった。3日間じゃなくて、金土だけで帰った年もあったが。

 記憶をさらうと、1998年から2012年までは、間に何度かチケットを買って行った年はあったが、基本的には仕事(取材)として、関係者招待で行っていた。いちばん仕事をしたのは2000年で、当時自分がいたBUZZという雑誌のフジロック特集で、3日間で20本くらい、出演アーティストのインタビューを仕込んだ。

 で、2013年以降は、完全に仕事ではなくなって、普通にチケットを買って行っている。

 「出演者が国内アーティストのみ」「アルコール摂取全面NG」「こんな時なのにやるのかと世間から非難殺到」だった去年=2021年も、行った。そんな年だからむしろ行って、どんなもんだったか体験しておかなくては、と思ったのと、3日目の大トリが電気グルーヴ、有観客ではあの事件後一発目のライブなので、行かないわけにはいかない、という理由で。

 でも、じゃあ3日目だけ行くのもありかな、と一瞬思ったが、初日に坂本慎太郎が出ることを知り、その選択肢も消えた。

 で、現場に行ったら、毎年出くわす同業者(ライター)などの音楽業界関係者、誰もいなかった。いつもなら、ちょっと歩くたびに誰かにばったり会うが、ほんとに、誰にも会わない。

 で、ツイッターで、みなさんYouTubeで中継を観ていることを知って「え、みんな家なの?」「で、来た奴、こんなに世間からひんしゅく買ってるの?」と、驚いたものです。

 

 そんな2021年すら行ったのに、なぜ今年2022年は、行くのをやめたのか、自分は。考えても、大した理由が出てこない。

 自分にとって「このバンドが出るなら絶対行かなきゃ」という決め手がなかった、とか、チケット代交通費宿泊費がシャレにならないとか、そういうのはある。あるが、2000年代や2010年代に、そう言って行くのをやめる人たちに、「誰かを目当てに行くもんじゃないじゃん、フジロックって」とか、「そうよね、余裕で海外旅行に行けるぐらいカネかかるよね。じゃあ海外に行ったら?」と、自分が思っていたような理由だ、いずれも。

 じゃあなぜでしょう、今年は行かないと決めたのは。わからないが、「夏は絶対にフジロックに行く、という生活習慣をやめてみたら自分がどうなるのか」という、言わば、人体実験をやってみたかったのかもしれない。と、今年のフジが2日終わった現時点で、思っている。

 

 まず2週間ぐらい前から、イープラスから毎日送られてくるメールや、PCを開く度に表示されるフジロックの広告が、やたらと気になり始める(それ以前からしょっちゅう目にしていたのに)。「来週だ、楽しみ」とか「今年はこれを観よう」みたいなツイートも、観るたびいちいち「うっ」となる。

 そういえば友達が、子供たちをフジロック・デビューさせるので初日だけクルマで行く、あとひとり乗れるのでよかったら行きます? って言ってくれてたな……いやいや、1日行ったら帰ってこれないだろ俺、じゃああとの2日間どうすんのよ、宿とか交通とか(そういうの、行きあたりばったりでなんとかなるでしょ、という人もいるが、私はきっちり決めておかないと不安でダメなタイプです)。と思うと、その話に乗る気にもなれない。

 とか思っている間に、初日を迎えた。

 

2022年7月29日(金)

 まず、ツイッターやインスタグラム等を見るのを、極力やめた。いるじゃないですか、何かライブを観るたびにうれしそうにツイートする迷惑なバカが。去年までの俺みたいな奴。そういうのを観てしまうと、心をかき乱されること必至なので。

 ただ、そうやってSNSを避けても、わざわざメールやLINEで現場の写真やなんかを送りつけてくる知人もいる。中には自分も現場にはおらず、ニューヨークで配信を観ているくせに、「ねえ観てる?」「観なよ」「なんで観ないの?」などと何度もDMを飛ばしてくる、ロッキング・オン社ニューヨーク特派員中村明美のような奴もいるので、まったくもって油断できない。

 また、自分にとっては、YouTubeで自宅で観れる初めてのフジロックが今年、ということになるのだが(配信が始まって以降、現場に行かなかった年がないので)、それも無視することにした。

 涼しい家で観れて、ラクで楽しくていいわ、配信で充分じゃん、というふうに、自分がなれるとは思えない。「観るなら行けよ」と自分で自分に思うだろうし、観てしまったら最後「こんなに良かったのか! ああっ、生で観たかった! 行けばよかった! なんで家にいるんだあ俺はあああ!!」ってメンタルが錯乱する、としか思えない。

 というわけで、この日はそのように、SNSYouTubeも、触らずに過ごすことに、成功した。夜は下北沢シャングリラに、空想委員会のツアーファイナルを観に行った。すごくいいライブだった。終演後に挨拶に行ったら、ボーカル&ギターの三浦くんとギターの佐々木くんが、それぞれ、「来てくれたんですね、フジロックを蹴って」と言ってくれた。

 いや、すみません、そのためにフジを蹴ったわけじゃないです、正直。と、心で思った。ただし、もしフジに行っていて、今日ここに来れなかったら、代わりにどこか地方まで空想委員会のツアーを観に行きましたよ、俺は。とも思った。

 

2022年7月30日(土)

 この日は、アナログフィッシュビルボード横浜のライブを観に行くつもりだった。昼夜2公演、なんだったら両方観てくださいよ、と、ボーカル&ベースの佐々木健太郎は言ってくれた。が、メンバーのコロナ陽性で延期。うわあ。何してくれてやがんだコロナ。困った。

 それでもとにかくなんかしよう、と、家を出て、朝兼昼メシを食って、電車に乗って買い物に行った。どこの街にも普通に人があふれているのが、「今日、フジロックなのに……」と、不思議に思える(あたりまえだ)。で、自分がここにいることも、さらに不思議に思える(もっとあたりまえだ。行かなかったからだ、おまえが)。

 で、あれこれ買って、夕方、家に帰ったところで、フジのタイムテーブルがちらっと目に入る。ホワイトステージでGLIM SPANKYが始まるところだ。あ、俺、近々ニューアルバムのインタビューの仕事、入ってる。だったら仕事的に絶対観た方がいいじゃん、「観れない」ならしょうがないけど、「あえて観ない」は、おかしいじゃん……と、つい観てしまった。前半のMCで、松尾レミが空を指差すと虹が出ている、という感動的なライブだった。

 で、結局、そのままずーっと観ました。その日の生中継が終わって、昼間のライブの再放送まで。

 GLIM SPANKY→FOALS中納良恵のザッピング→DINOSAUR JR.→JACK WHITE→CorneliusDINOSAUR JR.、何度も生でライブを観ているけど、こんなに細部に至るまで真剣に観たのは、川崎クラブチッタの初来日以来だったかもしれない。

 で。「配信でも観れてよかった」といううれしさ0.5割、「なんでここにいないんだ俺はああ!!」という己への怒り9.5割の時間でした、終始。

 特に、それがピークに達したのが、ホワイトのトリ、Corneliusが、後半で「環境と心理」をやった時。

 この曲、昨年2021年の初日(8月20日金曜日)のホワイトのトリで、現在のTESTSET=この時はMETAFIVEの特別編成の4人(砂原良徳×LEO今井、サポートで白根賢一と永井聖一)が、ラストにやったのだ。

 この曲を終えて、LEO今井は「緊急事態中の、METAFIVEでした」と言って、ステージを下りた。しびれた。

 それを生で観たのに、今年のCorneliusのこれを配信で観てるって、何をやってるんだ俺はああああ!!!!! と、頭をかきむしりたくなったのでした。

 

2022年7月31日(日)

 これを書いている現在はまもなく11時、グリーンとホワイトの1アクト目が始まる時刻。

 今日の予定は、自分の中での「ロック・バンドのライブの最強コンテンツ」=ピーズのワンマンを観に、新宿紅布に行く。18時から。

 ……待てよ。メンバーの誰かがコロナでキャンセルとか、ないだろうな。と、今、ピーズの公式ツイッターを見たが、大丈夫だった。今のところ、特にそういう告知はない。

 外はいい天気、猛暑。私の今日は、どんな日になるでしょう。

小田嶋隆『東京四次元紀行』について

 小田嶋隆の遺作となった……いや、この後も、すでに書かれたものをまとめた本が出る可能性はあるし、大いに出してほしい、買いますので、とも思うが、少なくとも「生前に出た」という意味では遺作となった、著者初の小説が『東京四次元紀行』である。

 「あとがき」に明記されているように、この短編小説集の元になった雑誌連載は、2014年の春、月刊サイゾーと、季刊の総合誌SIGHTで、ほぼ同時に始まっている。

 SIGHTの方は『小田嶋隆の私物小説』というタイトルだった。自分の記憶に残っている「物」をモチーフにして、過去のことを書いていく、という設定なので、ご本人の発案で、そういうタイトルに決まった。

 

 SIGHTでは、その前の号までは、『小田嶋隆の万巻一読 ベストセラーを読む』という連載が、長いこと続いていた。ざっくり言うと、「その時に売れているベストセラー本を読んで批判する」という趣旨だった。そうではなく、肯定的なテキストの時もたまにあったが、基本は批判である。

 つまり、ご本人としては、普段なら積極的に読みたくない本を読まされて、何か書かなきゃいけないわけで、しかも年末の『ブック・オブザ・イヤー』の特集が載る号は、まとめて8冊くらい、読んで書く羽目になるわけだ。

 もうつらい、不毛すぎる、やめたい、編集部が引き下がってくれないなら何か違う内容の連載を考えるから──とおっしゃるようになり、そう言われると「そりゃあそうですよね」としか言えない、何も反論できない、というわけで、そのように連載内容が刷新された。

 

 と、記憶しているが、新しい連載が始まってみると「前のがイヤだからこれにしたっていうのも本当だろうけど、こういうのが書きたい、というのも大きかったんだろうな」と、納得させられる内容になっていた。

 なぜ小説を書きたくなったのか、については、『東京四次元紀行』が出た時のインタビュー等で、ご本人が言葉にしておられるので、興味のある方は、探して読んでみてください。

 

 が、その連載が始まってほどなくして、SIGHTは季刊から不定期刊になり、そして連載の第4回が載った時点=2015年の春に、僕は会社を辞めてしまった。

 もちろん小田嶋さんは関係なく、自分の希望で辞めただけである。2015年4月、自転車事故でけっこうな怪我を負って入院中だった小田嶋さんのところに、後任の担当を連れて挨拶にうかがったのが、お会いした最後になった。

 それ以降はフリーのライターになった、つまり編集者ではなくなったので、また違う雑誌でお仕事しましょう、みたいな機会など生まれようがないから、お会いしようがない。だから、しょうがない、と納得している。

 で。その2年後の春に発売された号を最後に、不定期刊SIGHTは、出ていない。ゆえに、その連載も、『第8回・1979年・タイプライター』で止まったままになっていた。

 

 なので、2022の6月に、初の小説集が出る、ときいた時は、うれしかった。ああ、あれ、ちゃんと1冊にまとまるんだ、と。

 でも、本が出た、と思ったら、ご本人が亡くなってしまった。

 かなり前から、体調がよくないこと、入退院を繰り返しておられることは、ツイートや原稿で把握していた。コロナ前なら、お見舞いに行きたいところだが……いや、コロナがなくても、「3ヶ月にいっぺん原稿を渡すだけの薄い関係の編集者、しかも7年前に会社やめたあとは接点なし」であることを考えると、お見舞いなど行けるもんではないが。

 

 とにかく。短い間でしたが、本当にお世話になりました、ありがとうございました。自分が最後に編集者だった頃の数年間の仕事のひとつが、小田嶋さんの担当だったことは(どマイナーな季刊誌であっても)、とてもうれしい事実です。と、お伝えしたい。

 で、この「小田嶋隆が小説を書くシリーズ」を、これ以上読めなくなったことが残念です、ともお伝えしたい。「連載4回でいなくなったくせに」と言われると、何も言えないが。

 

 小田嶋さんだけじゃなくて、高橋源一郎さんも、斎藤美奈子さんもそうだが(内田樹さんは「書いてもらう」じゃなくて「しゃべってもらう」の担当しかしたことがないので、ここにはカウントしません)、そのような、ひっぱりだこで多忙な書き手にとって、季刊誌=3ヵ月に一度の連載など、レギュラーの仕事のうちに、カウントされない。週刊、せめて月刊でないと、1ヵ月の仕事のスケジュールの中に、組み込んでもらえない。

 かつ、そもそも編集長(渋谷陽一)との関係性で引き受けたけど、別に原稿を落として載らなくたっていいし、それで連載を打ち切られたって、痛くも痒くもない、なんなら打ち切ってちょうだい、くらいのもんなんだろうなあ。

 と、当時は思っていた。で、頭にもこなかった。先方の他の仕事状況などを鑑みると「うん、納得」としか思えなかったので。

 なので、それでもなんとか書いていただけるにはどうしたらいいかを考えて、実行していった。それによって、かなり鍛えられたと思う、自分が。結果、担当している間は、一回も落とさなくてすんだし。超ギリギリになることはあったけど。いや、毎回そうだったけど。

 

 ご冥福をお祈りします。私、担当になる以前から、小田嶋さんの熱心な読者でした、じゃない。熱心な読者です、今も。

 最初に書いたように、書籍化されてない小田嶋さんの原稿を持っている各社の編集者のみなさん、今後も新刊、お待ちしています。

 って言うのはずるい、と、わかってはいるが。出版社の社員でもなければ編集者でもない立場になってから、そういう希望を述べるのは。

 

 ツイートひとつで、故人と自分との関係性を示して、「ご冥福をお祈りします」で終わるようなやつが、いつもなんかイヤなので、追悼の意を示したいなら、何かちゃんと書かなきゃ。と思ったら、こんなに長くなってしまった。

 

 さいたまスーパーアリーナへ行く時、埼京線から京浜東北線に乗り換えるために、いったん赤羽駅で下りる。そのたびに、「3ヵ月に一回来て、駅前の喫茶店で、小田嶋さんと打ち合わせしたなあ」と、思い出していた。

 今後も思い出し続けると思う。

 

                        2022年6月24日深夜 兵庫慎司

松村雄策追悼

 というタイトルに、「さん」を付けるかどうか、迷った。

 もちろん、個人的なつながりはあるし、一緒に飲んだり、プロレスを観に行ったりもしたし、自分が人生的に危うかった局面で助けられた恩人だったりもするし、基本、頭が上がらない。

 という事実は、歴然とあるが、そういう類いのことは、墓前なり、お別れの会なりで(あるのかどうか知らないが、このご時世なので通常の葬儀は難しいだろうな、「近親者のみで」ということになるだろうな、せめて、いつかお別れの会があればいいな、と希望しています)で、手を合わせるとかして、ご本人に伝えればいい。

 

 と思ったので、ここでは、作家(という肩書がもっともふさわしいと僕は思っている)松村雄策について書くことで、追悼の意を表したい。

  「これこれこうでお世話になりました、追悼」みたいな、140字以内のツイートで、すませられるものではなかったので、やはり。

 

 僕がロッキング・オン(洋楽の、です。当時、ジャパンはまだなかった)を読み始めた、1982年とか1983年とかの頃、「俺の頭が悪いから理解できないんだろうな」と思う難しい原稿や、「ただただわからない」原稿だらけの誌面における、最初のとっかかりが、松村雄策だった。

  シンプルで、とっつきやすい。誰が読んでも意味がわかるし、この人が何を言いたいのかが伝わる。だからのめりこんだし、ここを起点にして、だんだん他の人たちの原稿も読めるようになった。

  渋谷陽一のラジオがきっかけで雑誌を読むようになったのは、言うまでもなく渋谷陽一あってこそだが、その雑誌を出している会社に就職して、自分も何か書いたりするようになり……というところまでも、渋谷陽一ありきだが、24年勤めてその会社をやめたあとに、一応「なんか書いて食っている」のは、松村雄策のせい(そう、「おかげ」ではなく「せい」)も大きい、と、僕は思っている。

 

  さすがに、ビートルズは、それ以前から聴いていたが、ドアーズや、ジャックスや、ニック・ロウや、上々颱風などは、松村雄策の原稿を読まなければ、熱心に聴くようには、ならなかっただろう。

  同じく、松村雄策がいなければ、新日vsUWFインターの対抗戦を東京ドームに観に行って、バックネット越しに武藤敬司vs高田延彦戦を観て、声をからしたりしなかっただろうし、天龍源一郎が立ち上げたWARに、あんなに足しげく通わなかっただろう。

  あと、いい居酒屋を見極める眼も、松村雄策から学んだところは大きい気がする、そういえば。

 

 話がそれた。戻します。

  とにかく。自分が中高生当時の、ロッキング・オンの誌面において、いちばんわかりやすくて、いちばん簡単そうで、いちばん「これなら俺にも書けるかも」と思わせてくれたのは、松村雄策の原稿だった。

 と、そんなふうに思って何年か経ってから、たまたま株式会社ロッキング・オンに入社することになった僕は、東京に来て、自分の机をもらって、「当然おまえもなんか書け」となって、原稿用紙に向かってから、初めて気がつくのだった。

 違う。あれ、「俺でも書けるかも」じゃない。逆だ。むしろ、難しげな、なんか高尚げなことを書いている人たちは、松村さんみたいに書けないから、そうしているんだ、ということに。

 

 そこからあと、じゃあ自分がどうしたか、その結果今どうなっているか、とかは、まあこまごま書いてもあれだから、いいですよね。

 ざっくり言うと、あんな領域まで行けるわけないし、もはや行きたいとも思わないが、一応、ひとりで、文章を書くことで食ってはいます。ギリですが。で、ギリだけど食えている要因の、かなり大きなひとつに、松村雄策の影響があります。

 

 音楽を聴いたりして何かを書く仕事を、31年続けているが、その中でも本当に数少ない、自分で「これはいいやつが書けた」と思った原稿のひとつが、ロッキング・オン社から出た『リザード・キングの墓』が、角川文庫に入った時に(1993年8月)、ロッキング・オン誌の「カルチャー・クラブ」のコーナーに書いた書評である。

 『正しい立ち食いそばの食べ方』や、『近所で坂口征二を見た、というエッセイ』などに関して、主に言及したのを憶えている。

 雑誌は、自分の手元に残っていなくて、読み直すことはできないが、その十数年後に、インタビューで会った作家、津村記久子に、「あ、兵庫慎司だ!」と言われ、その原稿がとても印象に残っている、と誉められ、その縁で、彼女の文庫の解説を書かせてもらったりした。

 というのも、松村雄策ありきなんだな、そういえば。

 

 本当にお世話になりました。感謝しています。どうぞ安らかに。

 とかそういうのは、墓前なりに行って直で言えばいいんだって、だから。

『カムカムエヴリバディ』の、ジョーのジストニア発症について

 うわ、ジョーをジストニアにするか!? 金子隆博が音楽担当のドラマで!

 

 と、びっくりした。NHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』の話である。ササプロのコンテストで優勝し、レコーディングとコンサートを行うために東京へ行ったジョー(オダギリジョー)だが、なぜか突然トランペットが吹けなくなってしまい、レコーディングもコンサートも中止、事務所をクビになって、失意のうちに大阪に帰って来る。

 で、なんやかんやあって、るい(深津絵里)と結婚して京都へ移り住み、ふたりで回転焼き屋を始める──という、1月26日(水)放送の第60話まで観て、この「吹けなくなった件」はいったん終わり、と判断し、これを書いているわけです。

 なんで書いているのかというと、このドラマを観ている知人が、「ジョーの心の不調で演奏ができない、は、ちょっと説得力がないなあと思う」と書いていたので、ああそうか、そういうふうに思う人もいるか、そりゃいるよね、じゃあ納得している側として、なんか書きたいな、と思ったからなのだった。

 

 ジョーのように演奏ができなくなる病気は、職業性ジストニアといって、ミュージシャン界隈・バンド界隈では、よく知られている。なので、その界隈に詳しい方は、ここから先は「知ってるよ」ってことばかりだと思います。

 まず、ドラマの中で「ジストニア」と呼ばれていないのは、当時はまだそういう病気があることが認知されておらず、その名称も知られていなかったからだ、と思う。

 現に、僕がそういう病気があるということを知ったのも、わりと最近で、2001年頃だった。当時、GRAPEVINEのリーダーの西原誠がベースを弾けなくなり、一時バンドを離脱して療養、2002年に復帰したが、結局年内に脱退した。という件で、ジストニアという病気があることを知った。

 腕の筋力や目や耳など、肉体的に特に異状はないのに、楽器を弾く・叩く・吹く時だけ、身体が言うことをきいてくれなくなってしまう、という。

 あ、楽器だけじゃない、歌の場合もある。あと、作家やスポーツ選手なども、あるそうです。スポーツ選手の場合、「イップス」と呼ばれるあれだ。同じ動作をくり返す職業の人に、多いという。

 で、非常に難しい病気で、今でも、「こうすれば治る」という治療法は、確立されていない。

 

 GRAPEVINEの件以降も、何年かに一回、そういうケースが耳に入ってきた。

 たとえば、氣志團のドラマー、白鳥雪之丞スガシカオのバンド等で弾いていたギタリスト、田中義人。RADWIMPSのドラマーの山口智史。最近では[Alexandros]のドラム、庄村聡泰など。

 で、『カムカムエヴリバディ』の音楽を担当している金子隆博こと、米米CLUBフラッシュ金子も、そうなのだ。カールスモーキー石井の妹さん=シュークリームシュのMINAKOと結婚した、最近ではNHK『うたコン』のオーケストラの指揮などでも目にする(最初はびっくりしました)、作曲家・プロデューサー・アレンジャーの、この方も、ジストニアを患ったことで……いや、それだけが理由じゃなくて、きっと元々そういう素養もあったんだろうけど、サックスのプレイヤーから、プロデューサー等の仕事に、軸足を移した人なのだった。で、それで大成功しているのだった。

 

 脚本の藤本有紀、そのことを知っていて、ジョーをジストニアにしたのか。それとも、知らずに書いたのか。あるいは、書いたあとで、「え、音楽、金子さんなの? どうしよう?」みたいなことにはならなかったのか。いずれにせよ、すごい。

 

 なので、最初に書いた、「ジョーの心の不調で演奏ができない、はちょっと説得力がないなあと思う」とは、僕は思わなくて、むしろ「大昔が舞台のドラマなのに、後の時代まで病気として認知されないやつをも取り入れている」というふうに、肯定的に受け止めています。

 その知人に「だからあんたも説得力がないなんて言うな」とは思わないけど。そんなの、その人の自由だし。

 あ、もし難癖つけるなら、ジストニアは、ある程度キャリアを積んだミュージシャンが罹るケースが多くて、デビュー前の新人がいきなり罹る、という例は、あんまりきいたことがない。ということぐらいでしょうか。僕が知らないだけ、という可能性も、大いにあるが。

 

 金子隆博が、『カムカムエヴリバディ』のことや、ジストニアのことを語っているインタビューがあったので、貼っておきます。

news.yahoo.co.jp

 

2022年1月23日(日)、新生ピーズのツアーファイナルを観た

 はる(大木温之/vo&g)、アビさん(安孫子義一/g)、みったん(岡田光史/b)、茂木左(ds)の新体制で、ミニアルバム『2021』をライブ会場&ネット通販限定でリリースし、横浜・京都・大阪・東京の4ヵ所を回ったツアーのファイナル。この体制になってから「Theピーズ」から「ピーズ」に改名もしている。

 正確に言うと、2019年にはるが食道がんの手術で療養に入る前に、この4人で『Summer Session 2019』という4曲入りシングルを出しているし、ライブも始めていたが、作品を出してツアーを回ったのは、今回が初だし、ファイナルは渋谷クラブクアトロという大きめのライブハウスだったので、これが新体制のお披露目、というふうに捉えていいと思う。

 

 で。メンバーや担当楽器やバンド名が変わったから、というだけでなく、ライブ自体のやりかた、演奏への取り組み方も含めての、新生ピーズになった、ということがよくわかるライブだった。

 2017年6月9日に初の日本武道館をやる前に、はるは「これが終わったらライブのやり方を変える」ということを、公言していた。

 

 「でっかい音出せんのは、50すぎの身体にムチ打てんのは、これがいいチャンスだなあと思って。こっから先は、音量を下げていかなきゃ、歌う時の音程もとれなくなってきてるから。でも武道館までは、でかい音でやらしてもらおうかな、なんでもここを区切りにできるチャンスかな、と思ってさ」

 「耳とかの問題で、演奏がきっちりやれなくなるから。あと、叩く方も、筋肉の問題とかさ。そんな力まかせな、青春まかせじゃないような音の出し方とかを、改めて3人で……今までは、でかい音を出してたまたまひとつになった時に『気持ちいいね』だったのが、武道館終わってからは、ひとりひとり演奏して『あ、そうきたか、じゃあこっちは……』って、アンサンブルみたいなことを始めていかないと、この先ライブやれねえなと、俺、思うんだよね」

 

 以上、当時、僕がリアルサウンドに書いた記事の中の、はるの発言より。

realsound.jp

 

 つまり、まさに、その言葉どおりのライブになっていた、ということだ。換気休憩とアンコールを含めて3時間弱、全部で38曲。アンコールの最後の2曲「脳ミソ」と「グライダー」だけはボリュームを上げて爆音でプレイしたが、そこまでの36曲は、出音を抑え、4人それぞれのプレイが細部まで聴き取れるように、それらの音が重なった時のアンサンブルの具合が楽しめるように──そんなライブのやり方だった。

 10月30日(土)横浜ベイホールの、木村充揮との対バンで観た時も、そんな感じのライブだった。でもその次に、11月11日(木)新代田FEVERの、フラワーカンパニーズとの対バンで観た時は、やや爆音に戻っていた印象だった。

 だから、かっちりと方針が定まったのは、このツアーからだ。と、言ってもいいのかな。いいと思う。

 アンコールで「初夏レゲ」「どっかにいこー」「絵描き」「温霧島」といった、ワーッと盛り上がるタイプじゃない曲をやることが可能になったのも、そういうふうに方向を切り替えたからかも、と、思ったりもした。

 

 で。その横浜ベイホールと新代田FEVERを観たあとに、別の現場で「あ! ピーズの新機軸とかぶってる!」と驚いたのを、思い出した。

 真心ブラザーズだ。ツアーの東京の日に、別のライブレポ仕事が先に入っていて、観れなかったので、12月3日(金)の仙台Rensaまで行ったのだが、始まった瞬間、「あれ、Rensaって、出音制限が厳しいハコなのか」と思った。

 それくらい小さかったのだ、4人の音が。いや、でもRensa、他のバンドもツアーでよく来る有名なハコだし、「そんな小さい音ではできません」っていう人も多いだろうし……。

 と、不思議に感じながら観ていたのだが、3曲ぐらい終わったところで、「いや、違う。これ、わざとだ」ということに、気がついた。

 出音を抑えている分、ボーカルのニュアンスや、各楽器の鳴りや、それぞれの音が絡むアンサンブル等が、細かいところまでよく聴き取れる。歌も楽器も、エフェクトをなるべくかけず、素の鳴りを重視して音を作っているようで、それも心地いい。

 終演後、YO-KINGに確かめたら、やはり、意識的にそうしている、ということだった。で、「今、ピーズもそっちに進んでますよ」と言ったら、驚いておられた。

 ただ、歌い方自体は、いつものとおりの感じだったし、真心の場合は、耳や喉の問題は、あんまり関係ないのかもしれない。「細部までしっかり聴かせる」ことに、新しい喜びを見出している、ということなのかもしれない。

 

 以上、だからなんだと言われると困るが、長い付き合いの2バンドが、偶然、同じ時期にシンクロしたことをやっているのがおもしろいなあ、と思ったので、書いてみた次第でした。

『この30年の小説、ぜんぶ 読んでしゃべって社会が見えた』について

 ポストを見たら、河出書房新社から、本が届いていた。

 編集者が、あるいは作家本人が、知り合いだったりする場合、こんなふうに新刊を送ってくれることは時々あるが、河出には知り合いはいないし、接点もない。なんだろう、と思いながら開けたら、この新書が入っていた。

 

www.kawade.co.jp

 

 ロッキング・オン社の、季刊の総合誌SIGHT(現在は実質休刊)で、年に一回、「ブック・オブ・ザ・イヤー」という特集を行っていた。エンタメの本は北上次郎大森望が、文芸・評論の本は高橋源一郎斎藤美奈子が、その年に発行された本を選んで語りまくる、という企画である。

 その高橋源一郎×斎藤美奈子の文芸・評論編の、2011年から2014年までの対談4本と、2019年3月号に「すばる」で行われた対談、さらに2021年9月に、語りおろしで行われた対談、計6本が、この本には収録されている。

 

 僕は、そのページの担当編集だったので、そのSIGHTの対談の4本のうちの3本を、構成した。

 おふたりの間に立って、選書していただいて、それぞれに本をお送りして、対談日を決めて、立ち会って、あとでそれをテキストにまとめて──という。

 この本の編集の方からの手紙が入っていて、「兵庫様が構成されました対談も収録しておりますため、見本をお送りさせていただきました。ぜひご一読いただけましたら幸いです」とのことだった。

 

 びっくりしたし、とてもうれしかった。

 そもそも僕は、この本が出ること自体、知らなかった。当然、河出はロッキング・オン社に一報を入れた上で、この本を作ったのだろうし、ロッキング・オン社も「著者のご希望なら、はい、どうぞ」ということなのだったと思う。で、そのことを、当時の担当編集者である僕には、知らせてこなかった。

 あたりまえだ。かなり前に、実質的に休刊になった雑誌の記事をまとめて、よその出版社から本が出る、ということを、とうに会社を辞めている当時の担当者に、わざわざ知らせる義務などない。

 もっと言うと、その本ができあがったら、ロッキング・オン社には送るべきだろうし、実際そうしているだろうが、もう会社にいない当時の担当者にまで送ってやる必要、ないと思う。

 たぶん、著者の高橋源一郎さんか斎藤美奈子さんが「兵庫にも送ってあげて」と言ってくださったのだと思う。会社を辞めてもうすぐ7年、おふたりには一度もお会いしてないというのに。ありがとうございました。恐縮です。あちこちでのご活躍、拝読しております。

 

 ということがうれしかったのと、自分が編集者・ライターとして関わったものが、時間が経ってから、こんなふうによその出版社から書籍化されること自体がめずらしいもんで、何か書いておこうと思ったのでした。

 こんなこと、90年代半ばにロッキング・オン・ジャパンフラワーカンパニーズ鈴木圭介が連載していたコラムが、別の出版社から2008年に出た、『三十代の爆走』という、彼の初の著書に入った時以来なもので。

 その時は、私、まだ会社にいました。で、そういう問い合わせが来て、上司に「あの昔の圭介の連載、単行本に載せたいんですって。あげちゃっていいすか?」「ああ、いいよいいよ」みたいな、イージーな会話を経て「はい、どうぞ」ってことになったのを憶えています。

 

 なお、『この30年の小説、ぜんぶ』、多くの部分を自分が構成したにもかかわらず、今読み直しても、めちゃくちゃおもしろい。

 年に一回、おふたりが選んできた小説・評論を並べて語ってみると、毎年必ず、その年を、その時代を反映したものになっている。そのことに、毎年感嘆していたのを、読みながら思い出しました。

映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』について

 燃え殻の小説『ボクたちはみんな大人になれなかった』に、映像化の話が来ている、と最初にきいた時は、実現はするだろうけど、おもしろいものにするのは難しいだろうなあ、と、正直、思った。

 なんで。「文字で書いてあること」が、すごく重要な作品なので。ストーリーとか展開とか以上に、文体や言い回しや綴り方が、その魅力の大きな部分を占める小説なので。

 

 その文章を目で追うことそのものが、読み手に快楽を与える、だから映像やマンガにする=文字表現でない形にすると、その威力が半減する。そういうタイプの作家が存在する、というのは、以前から、読者として、知っていた。

 僕は昔、SIGHTという季刊の総合誌で『作家インタビュー』というページを担当していて、数年間、3カ月に一度のペースで、小説家に話を訊いていたのだが、「この人の小説、文章であることの快感がでかいから、映像にするの、難しいだろうなあ」と思っていたら、先方からその話を始めたことが、二回ある。

 宮部みゆき伊坂幸太郎だった。

 おふたりとも、その時点で何作も映像化されていたが、にもかかわらず、そういう自覚があったそうだ。

 その話をきいてから10年以上経っているので、今はどう思っておられるかはわからないが(その後も何作も映像化されているし、話題になった作品も多いし)、当時、宮部さんは、「映画とかドラマ畑の方に、映像化がものすごくやりにくいって言われます」とおっしゃっていた(SIGHT2010年秋号掲載)。

 で、「ああ、確かにそうだろうなあ」と納得した。宮部みゆきの数十年来のファンであるがゆえに。で、「とにかく目で字を追うこと自体が気持ちいい」というのが、その作品を読みたくなるいくつもの理由の中で、かなり大きいやつだと思っていたので。

 

 逆に、己のそういう文体フェチの琴線に、まったく触れないタイプの小説もある。

 たとえば、西村京太郎とか。大学生の頃にハマって数十冊読んだので、断言していいと思うが、「意味を伝える」以外のことを、潔いくらい放棄している文章である。逆に言うと、だからあんなに大量に映像化されたのかも、とも思うが。

 

 話を戻すと、つまり燃え殻の小説は、西村京太郎側ではなく、宮部みゆき伊坂幸太郎側である、と。だから映像化は難しいだろうな、どんなにいい役者が演じても、時代考証とか美術とかがどんなにしっかりしていても、原作でいちばん重要な「文章のあの感じ」は、消えちゃうだろうな。と思っていたのだった。

 なので、観ていちばんびっくりしたのはそこだった。

 「あの感じ」が映像になっている。現在から過去へ遡っていく全体の構成とか、ある部分は目まぐるしくある部分はオフビートな編集のしかたとか、撮り方とかで、それを表現している。

 キャストがみんなすばらしいとか、時代の再現感とかゴールデン街の感じとかがリアルで懐かしかったり嬉しかったりするとか、いろいろな魅力のある映画だが、僕にとって、最もインパクトがあったのは、そこだった。

 

 どうやってそれを可能にしたんだろう。というような話も出てくる、この映画の原作:燃え殻、監督:森義仁、脚本:高田亮がしゃべっているポッドキャストが、全4回、アップされています。司会、私です。Spotifyで聴けます。

 

open.spotify.com

 

 以上、本日(2021年11月5日)が、映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』の公開日なので(Netflixと劇場の同時公開)、書いておこうと思ったのでした。