兵庫慎司のブログ

音楽などのライター、兵庫慎司のブログです。

小田嶋隆『東京四次元紀行』について

 小田嶋隆の遺作となった……いや、この後も、すでに書かれたものをまとめた本が出る可能性はあるし、大いに出してほしい、買いますので、とも思うが、少なくとも「生前に出た」という意味では遺作となった、著者初の小説が『東京四次元紀行』である。

 「あとがき」に明記されているように、この短編小説集の元になった雑誌連載は、2014年の春、月刊サイゾーと、季刊の総合誌SIGHTで、ほぼ同時に始まっている。

 SIGHTの方は『小田嶋隆の私物小説』というタイトルだった。自分の記憶に残っている「物」をモチーフにして、過去のことを書いていく、という設定なので、ご本人の発案で、そういうタイトルに決まった。

 

 SIGHTでは、その前の号までは、『小田嶋隆の万巻一読 ベストセラーを読む』という連載が、長いこと続いていた。ざっくり言うと、「その時に売れているベストセラー本を読んで批判する」という趣旨だった。そうではなく、肯定的なテキストの時もたまにあったが、基本は批判である。

 つまり、ご本人としては、普段なら積極的に読みたくない本を読まされて、何か書かなきゃいけないわけで、しかも年末の『ブック・オブザ・イヤー』の特集が載る号は、まとめて8冊くらい、読んで書く羽目になるわけだ。

 もうつらい、不毛すぎる、やめたい、編集部が引き下がってくれないなら何か違う内容の連載を考えるから──とおっしゃるようになり、そう言われると「そりゃあそうですよね」としか言えない、何も反論できない、というわけで、そのように連載内容が刷新された。

 

 と、記憶しているが、新しい連載が始まってみると「前のがイヤだからこれにしたっていうのも本当だろうけど、こういうのが書きたい、というのも大きかったんだろうな」と、納得させられる内容になっていた。

 なぜ小説を書きたくなったのか、については、『東京四次元紀行』が出た時のインタビュー等で、ご本人が言葉にしておられるので、興味のある方は、探して読んでみてください。

 

 が、その連載が始まってほどなくして、SIGHTは季刊から不定期刊になり、そして連載の第4回が載った時点=2015年の春に、僕は会社を辞めてしまった。

 もちろん小田嶋さんは関係なく、自分の希望で辞めただけである。2015年4月、自転車事故でけっこうな怪我を負って入院中だった小田嶋さんのところに、後任の担当を連れて挨拶にうかがったのが、お会いした最後になった。

 それ以降はフリーのライターになった、つまり編集者ではなくなったので、また違う雑誌でお仕事しましょう、みたいな機会など生まれようがないから、お会いしようがない。だから、しょうがない、と納得している。

 で。その2年後の春に発売された号を最後に、不定期刊SIGHTは、出ていない。ゆえに、その連載も、『第8回・1979年・タイプライター』で止まったままになっていた。

 

 なので、2022の6月に、初の小説集が出る、ときいた時は、うれしかった。ああ、あれ、ちゃんと1冊にまとまるんだ、と。

 でも、本が出た、と思ったら、ご本人が亡くなってしまった。

 かなり前から、体調がよくないこと、入退院を繰り返しておられることは、ツイートや原稿で把握していた。コロナ前なら、お見舞いに行きたいところだが……いや、コロナがなくても、「3ヶ月にいっぺん原稿を渡すだけの薄い関係の編集者、しかも7年前に会社やめたあとは接点なし」であることを考えると、お見舞いなど行けるもんではないが。

 

 とにかく。短い間でしたが、本当にお世話になりました、ありがとうございました。自分が最後に編集者だった頃の数年間の仕事のひとつが、小田嶋さんの担当だったことは(どマイナーな季刊誌であっても)、とてもうれしい事実です。と、お伝えしたい。

 で、この「小田嶋隆が小説を書くシリーズ」を、これ以上読めなくなったことが残念です、ともお伝えしたい。「連載4回でいなくなったくせに」と言われると、何も言えないが。

 

 小田嶋さんだけじゃなくて、高橋源一郎さんも、斎藤美奈子さんもそうだが(内田樹さんは「書いてもらう」じゃなくて「しゃべってもらう」の担当しかしたことがないので、ここにはカウントしません)、そのような、ひっぱりだこで多忙な書き手にとって、季刊誌=3ヵ月に一度の連載など、レギュラーの仕事のうちに、カウントされない。週刊、せめて月刊でないと、1ヵ月の仕事のスケジュールの中に、組み込んでもらえない。

 かつ、そもそも編集長(渋谷陽一)との関係性で引き受けたけど、別に原稿を落として載らなくたっていいし、それで連載を打ち切られたって、痛くも痒くもない、なんなら打ち切ってちょうだい、くらいのもんなんだろうなあ。

 と、当時は思っていた。で、頭にもこなかった。先方の他の仕事状況などを鑑みると「うん、納得」としか思えなかったので。

 なので、それでもなんとか書いていただけるにはどうしたらいいかを考えて、実行していった。それによって、かなり鍛えられたと思う、自分が。結果、担当している間は、一回も落とさなくてすんだし。超ギリギリになることはあったけど。いや、毎回そうだったけど。

 

 ご冥福をお祈りします。私、担当になる以前から、小田嶋さんの熱心な読者でした、じゃない。熱心な読者です、今も。

 最初に書いたように、書籍化されてない小田嶋さんの原稿を持っている各社の編集者のみなさん、今後も新刊、お待ちしています。

 って言うのはずるい、と、わかってはいるが。出版社の社員でもなければ編集者でもない立場になってから、そういう希望を述べるのは。

 

 ツイートひとつで、故人と自分との関係性を示して、「ご冥福をお祈りします」で終わるようなやつが、いつもなんかイヤなので、追悼の意を示したいなら、何かちゃんと書かなきゃ。と思ったら、こんなに長くなってしまった。

 

 さいたまスーパーアリーナへ行く時、埼京線から京浜東北線に乗り換えるために、いったん赤羽駅で下りる。そのたびに、「3ヵ月に一回来て、駅前の喫茶店で、小田嶋さんと打ち合わせしたなあ」と、思い出していた。

 今後も思い出し続けると思う。

 

                        2022年6月24日深夜 兵庫慎司