兵庫慎司のブログ

音楽などのライター、兵庫慎司のブログです。

サウナと読書とマナー違反

 「雑誌・新聞のお持ち込みはご遠慮ください」

 

  という注意書きが貼ってある銭湯のサウナもあるが、OKなところもある。暗黙の了解的に「べつに咎めませんよ」というところもあるし、おおっぴらにそれを認めているところもある。

  僕がよく行く中の一軒などは、ロビーに「サウナ持ち込み用雑誌棚」が、設けられていたりする。コンビニで売っている過去のヒット作を再編集したコミック本──『ゴルゴ13』とか『美味しんぼ』とかのあの手のやつね──が8割くらい、マンガ雑誌が2割くらい。

  銭湯側が用意するというよりも、客が持ち込んで、読み終わるとそこに置いて行く、そしてヨレヨレになりすぎたら銭湯側が捨てる、というシステムになっているようだ。そのことに気がついてからは、自分も、時々持ち込んで、置いて帰るようにしました。

 

  で、そんなある日。その銭湯のサウナで、汗ダラダラかきながら『人間交差点』を読んでいたら、隣に座った男が、四六版の書籍を広げた。

  文庫を持ち込む人は見かけたことがあるけど、ハードカバーはめずらしいなあ、と思って、チラッと目をやって、愕然とした。

 

  図書館で借りた本だったのだ。

 

 「世田谷区立××図書館」というシールが、表4に貼られているのです。

  ちょっと前にベストセラーになって映画化もされた小説だから、予約を申し込んでから何ヵ月も経ってからやっと順番が回って来たんだろうな、俺は本はすぐ買っちゃう方だけど、そういうがまん強い人が一定数いるのは知っています、って、いやいやいや、ダメでしょ図書館の本を持ち込んじゃ! あなたの本じゃないんだから! ページに汗とか落ちるし!

  と、それはもう驚いたが、これ、注意すべきことかどうかというと、微妙だ。ということに、その次の瞬間に、気がついた。

  たとえば「サウナから上がって汗を流さずそのまま水風呂に入る」などの、銭湯におけるマナー違反なら注意するべきだし、されるべきだが、それとはちょっと違う。

  僕が図書館の人なら注意するのが当然だし、彼が冒したのが図書館の中におけるマナー違反なら、他の利用者が注意するのも正当な行為だが、そのどちらでもないよね、これ。

  俺、べつに被害者じゃないし、「この場の秩序を乱すな」と彼に言う権利を有しているわけでもない。彼が乱しているのは「図書館のマナー」であって、「銭湯のマナー」ではないんだから。

  じゃあ、えーと、そうね、俺は世田谷区に29年住んでいて税金を納め続けているんだから、その本を購入したカネは俺の税金から出ているとも言えるわけで……いや、無理がある、それは。ありすぎる。

 

  なんでしょう、「あきらかにマナー違反だと思うけど自分にはなんの実害もないし、そのルールを共有すべき場にいるわけでもないので、何も言えない」という、この感じ。

  他にもあるかしら、こういう例って。えーと、たとえば、

 

  旅館の名前が入ったカサを、出先に放置して帰っちゃう人を見た時

 

  どうだろう。近くないだろうか。いや、近いことは近いけど、でもちょっと違うか。旅館は民間の経営なので、その分、公営である図書館よりも、「大きなお世話」感が、強まる気がする。

  あ、じゃあこれはどうだ。

 

  若くて健康なのにシルバーシートに座っている奴を見た時

 

  どう? 電車だと、もっとパブリック感あるよね? で、これ、もしそいつをシルバーシートからどかせたところで自分が座れるわけじゃない、だから座っていようがいまいが己の損得は関係ない、ただ純粋に、この場の秩序を乱すマナー違反に対して義憤にかられている、という点で、近くない?

  うん、近い。さっきのよりは近いが、でも、これもやっぱりちょっと違うか。電車の中というのは、たとえ自分の利害が関係なくとも、そいつがシルバーシートに座っていることによって、迷惑をこうむる人が存在しうる場なわけですよね。お年寄りとか、妊婦とか。

  でも銭湯のサウナは、その本がヘニャヘニャになったことで迷惑をこうむる人=図書館のスタッフと利用者、その場にはいないよね。その時その銭湯に「あ、うちの図書館の本じゃないか!」って人とか、あるいは「あ! それ、俺が借りる本なのに! 半年待ってやっともうすぐ順番回ってくるのに!」なんて人は。いたらすごいけど、むしろ。

 

  などと考えている間に、その男は、本を閉じて出て行ったのだった。

 

  あ、あと、タブレットを持ち込んで読んでいる人がいて、ぶったまげたこともありました。

  iPadKindle。壊れないのかそれ。でも、これは完全に大きなお世話なので、心の中でスルーしました。

カーリングシトーンズとユニコーン

  カーリングシトーンズって、ユニコーンなんですね。

 

  と、12月23日東京国際フォーラムホールAの、ツアー初日を観て思った。

  観なきゃわからないことでは全然ないだろ、という気が自分でもするが、でもあの客席で「あ、そうか」と気がついたのは事実なので、しょうがない。

 

  何が。要は、

・メンバー全員が作詞も作曲もする。

・メンバー全員がリードボーカルをとる。

・メンバー全員が担当パート以外の楽器も演奏する。というか、そもそも、担当楽器があやふやである。

  という点が、です。

  カーリングシトーンズのリーダーであり言い出しっぺであるのは寺岡呼人だ、という事実は棚に上げて比較すると、つまり、そのコンセプトを、担当楽器がはっきり決まっていて、ボーカル以外は詞曲を書いたことがほぼなかったバンドで実行したのがユニコーンであり、普段から作詞作曲を手掛けているボーカリストを集めて実行したのがカーリングシトーンズである、ということです。

  って、寺岡呼人はもともとベーシストか。だけど、ユニコーン奥田民生以外のメンバーみたいに、「歌えと迫られて歌うことになった」わけではないので、そのへんも棚に上げます。ジュンスカを脱退する前から、自発的に自分がボーカルでライブとかやってたし。で、脱退してすぐソロデビューしたし。

 

  インタビューを読んだら、リーダーは自分だけど、レコーディングの実作業でみんなをひっぱっていったのは民生だった、というような話を、呼人がしていた。

  というのも、そう考えるとうなずける。このメンバーの中で、「みんな詞曲を書く」「みんな歌う」「担当楽器があやふや」というコンセプトのバンドをやることにいちばん慣れているのは、民生だからですね。というか、ほかのメンバーはやったことがないからですね、そんなバンド。

 

  あと、こんな比較をすると、じゃあユニコーンよりもカーリングシトーンズの方がいいじゃないか、というふうに見えそうだけど、そうとは言い切れないのも、おもしろいところだと思う。

  まず、詞曲を書いてボーカルをとる人だけが集まる、というのは、今回のようなある意味特殊な状況じゃないと不可能である、という事実を置いておいても、そうやって「もともとみんな詞曲を書くしみんな歌うしみんないろんな楽器をやる」バンドにも、デメリットはある。

 「エキスパートがいないパートが生まれる」という問題だ。カーリングシトーンズで言うと、ドラムとキーボードですね。斉藤和義のドラムも奥田民生のドラムもトータス松本のドラムもとてもいいけど(ドラムに限らず、ボーカリストの弾く楽器って得てして魅力的なんですよね)、やはり技術的にできることに限界がある。キーボードも然り。そりゃあ、川西さんとABEDONの方が、プレーヤーとしてできることが全然多いですよね。あたりまえだけど。

  なので、カーリングシトーンズは、その分バンドでやれることのレンジが狭くなる。「この曲はストーンズ風」「これはディラン風」というふうに、ルーツがはっきりわかるような、シンプルなロックンロールやブルース等でアルバムができている理由はそこにもある、と言える。たとえば『服部』みたいなアルバムを作ることは、カーリングシトーンズでは不可能だろうし。

 

  などと書いていて、気がついた。カーリングシトーンズのこの6人、「作詞作曲は全部ボーカル」というバンドの経験がある人、ひとりもいないんじゃないか。

  奥田民生はここまで書いたとおり。寺岡呼人も、ジュンスカをやめる前から曲を書いていた。斉藤和義はソロ。

  YO-KING真心ブラザーズは、ふたりとも詞曲を書いて歌うし、サウンド的に中心になっているのはどちらかというと桜井秀俊の方だし。浜崎貴司FLYING KIDSも、いちばん詞曲を書いているのは彼だが、ほかのメンバーも書くバンドだ。

  トータス松本ウルフルズで、全部自分で書いてるじゃん。いや、でも、ファーストアルバム『爆発オンパレード』(1992年)は、作詞作曲のクレジットは「トータス・ケースケ」だったし、それ以降も『人生』(2017年)みたいに、ほかのメンバーも詞曲を書いたアルバムもある。

  だから、もともと各自そういう素養はあったんだけど、初めて全開でそういうバンドをやったのが、カーリングシトーンズだった、という。奥田民生を除いて。

 

  何が書きたかったんだかすっかりわからなくなりました。

  無理矢理結論をつけるなら、「バンドっておもしろいなあ」ということでしょうか。無理矢理すぎるか。

  ちなみに私、斉藤シトーンが書いた「何しとん?」と、浜崎シトーンが書いた「俺たちのトラベリン」が、特に好きです。

  前者は、ただ簡単にコードにのっけただけみたいな歌メロなのに、歩いてる時とか、気がついたらなんか口ずさんでいる曲。後者は、もろボブ・ディランな感じがとても沁みる曲です。

いただくな、そんなに

  と、いつも思っている。

  ツイッター等で何かを宣伝している人とか、テレビにプロモーションで出ている人とか、特にそうだ。

「映画に出演させていただきます」

「番組に出させていただきます」

「ライブをやらせていただきます」

「本を出させていただきます」

「小説を書かせていただきました」

  などなど。

「以前に旅番組に出させていただいて、ロケで北海道に行かせていただいた時に──」と、女優が「いただくダブり」でしゃべっている例も、テレビで目の当たりにしたことがある、そういえば。

 

  偉そうに見えないように、自慢のニュアンスが入らないように、とにかくなるべくへりくだっておこう、叩かれないために。という理由でそうしているのはわかる。わかるが、いくらなんでも過剰だと思う、謙譲が。

  たとえば、「ラーメンを食べさせていただく」とか「サウナに入らせていただく」とは、言いませんよね。だからつまり、「映画に出る」とか「本を出す」といったような、何かしらの晴れがましさを伴う行為を言葉にする時に、人はへりくだるものなのね。という世の中に、ネット普及以降、すっかりなってしまった、という話だ。

 

  そんなにへりくだるの、おかしくない? あなた、べつに特別扱いしてもらって映画に出たわけじゃないんだから、普通に「映画に出ました」でよくない? それが乱暴だと感じるなら、「映画に出演しました」で充分じゃない? という。

  でも、こういうのって易きに流れるのが世の常なので、現在のような「とりあえずへりくだっとけ大会」になってしまうのだった。

  このままいくと、映画とかテレビとかだけじゃなくて、ちょっとでも人にうらやましがられるかもしれない可能性のあることがらは、すべてそうなってしまうかもしれない。

 「ポルシェを買わせていただきました」とか。「スペイン旅行へ行かせていただきました」とか。「フルコースをいただかせていただきました」。いただかせていただく。もはや、何がなんだかわからない。

  もう一斉にやめません?

 

  あと、バンド名とか、お笑いのコンビ名とか、会社名とか、お店の名前とかに、なんでもかんでも「さん」を付けるのも、とてもイヤです。いつまで経っても「まあいいや」と思えない。

  という意味で、「ヤバイTシャツ屋さん」というバンド名は、とてもすばらしいなあと思う。「さん」キラー。

  とか言っていたら、「ヤバTさん」とか呼ぶ奴も現れるのだった。ああもう。

ユニコーン『服部』の本が出ました

  「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」という本が、11月21日にリットーミュージックから、発売になりました。

  ABEDON、EBI、川西幸一手島いさむ奥田民生、当時のマネージャー:原田さんと銀二郎さん、ディレクター:マイケルさん、プロデューサー:笹路正徳さんなどなど、『服部』に、もしくは『服部』の時期のユニコーンに関わった、メンバーとスタッフ総勢20名以上にインタビューをして、『服部』とはいったいなんだったのか、いかにとんでもない作品だったのか、そしてそのとんでもなさはどのようにして実現したものなのか、などを、解き明かしていく本です。おかげさまでとても順調に売れていて、評判もいいようです。ありがとうございます。

 

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ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー リットーミュージック刊 1,800円+税

 

  この本、4年前にフラワーカンパニーズの本を作った時の編集者が、「やりません?」と、僕に振ってくれた仕事である。「『服部』から30周年ってことで、こういう本を考えついて、企画書を作って、今、SMAにオファーしてるんですよ。もし通ったら兵庫さん、どうですか?」と。

  ぜひやりたいです、と答えた。が、正直、まず通らないだろうなあ、と思った。

  なんで。めんどくさいじゃないですか。僕がじゃなくて、インタビューに答えなきゃいけない本人たちと、スタッフのみなさんが。

  だって30年も前の話だよ? 孫とか余裕でできる年月よ? 憶えてないでしょ、そんな昔のこと。メンバーにとってもスタッフにとっても『服部』は、きっと、とても特別なアルバムだろうとは思う。思うがしかし、そのあとメンバーは、ユニコーンでもそれ以外でも、何作も何作もアルバムを作ってきているわけで。スタッフだってそうだし……いや、スタッフはユニコーンの仕事だけしているわけじゃないから、なおさらそうか。

  この本を出したら間違いなく100万部売れて、SMAがとんでもなく儲かる、だからそれでも出す! というのならわかるが、まずそんなことは起きないし。申し訳ないですが。

 

  でも通った、企画。びっくりした。で、もっとびっくりしたのは、インタビューのオファーを出した総勢21人、誰にも断られなかったことだ。全員がOKしてくださった。感謝です、ありがとうございます、と言うほかありません。

  そして、インタビューして、さらにびっくりしたのは、メンバーも、スタッフも、「昔のことだしなあ」とか「憶えてないなあ」とか言いながら、話を訊いてみると憶えてるのね。もしくは、忘れていても、しゃべっているうちに思い出したりするのね。

  で、ご本人たち、お互いにとっても、たぶん意外な事実なんじゃないかなこれ、当時はそれぞれ知らなかったんじゃないかしら、みたいなことが、ポロポロ出てきたりするのだ。

 

  たとえば。ちょっと本文から引用すると、「君達は天使」の後半のテンポが上がるタイミングで、テッシーのギターが急にバカでかい音でギャーン!と入ってくるところ。テッシー曰く「あれ、録ってるほうは、なんでこういう音がするのかわかってないと思う。俺しかわからないはず」だそうです。

  というようなことが、演奏面でも、コンセプト面でも、ジャケットなんかのアートワーク面でも、メンバー間・スタッフ間のコミュニケーション面でも、プロモーション面でも、マネージメント面でも、ミュージック・ビデオ関係でも、ツアー関係でも、いろいろあるわけです。

  というのが、とにかく刺激的な仕事でした。

 

   メンバーも、「こういう記憶ものにいちばん強いのはテッシー」というのが5人共通の見解だが、意外と「川西さんだけ憶えていたこと」があったり、ABEDONの「ユニコーンに入るまで」も訊いたらあまりにもおもしろかったり(前にロッキング・オン・ジャパンで2万字インタビューやったから知ってたはずなのに、それでもおもしろかったのです)、というようなことが、いろいろありました。

 

  リットーミュージックのサイトはこちらです。ぜひ。

https://www.rittor-music.co.jp/product/detail/3119343001/

 

  あ、あとひとつ余談。

  この本、僕のクレジット、表紙は「取材・文 兵庫慎司」ってなっているんだけど、上のリットーのサイトだと「著者」という肩書になっている。それがどうも、何かこう、申し訳ないというか、「おい!」と言いたくなってしまう、自分に。

  リットー的に、サイトに「取材・文」って書くわけにはいかないし、著者が誰なのかはっきり記す必要があるんだろうから、そう書くしかしょうがないのはわかるんですが。

   でもねえ。だってこれ、ユニコーンの本じゃないですか。まあ、じゃあユニコーンが著者なのか、と言われると、そうクレジットできないのはわかるが。でも、しゃべってるの俺じゃないし。メンバーとスタッフだし。

  それをまとめて地の文を書いたのは私ですが、インタビュアーが著者を名乗っていいのは、たとえば吉田豪がプロレスラーにいっぱいインタビューしている本とか、田崎健太の佐山サトル長州力勝新太郎の本とか、そういうのならセーフだけど……という気がしてしまうのだった。

  何か、すみません。

チュートリアル徳井申告漏れの件で考えた、「『面倒力』の脅威」について

  チュートリアル徳井義実の申告漏れ。7年で1億2千万円という金額や、個人的な旅行代や洋服代を経費として計上していたのが、所得隠しと認定されたことに関してはともかく、びっくりしたし、理解不能だったのは、2016年から2018年までの3年間、収入をまったく申告していなかったことだ。

  そんなの、僕程度の収入の奴でもありえない。ましてや、長年テレビに出続けている、大金を稼いでいることが誰の目にもあきらかな芸能人なんだから、そんなの一撃で刺されるに決まってるじゃないか。というかよく3年も刺されなかったな。その方が不思議だ。

  とにかく、なんで税務申告しなかったの? 会社組織にしてたのに! 税理士いるでしょ?

 

  しかし。10月23日の夜、徳井が開いた記者会見での言葉を読んで、腑に落ちた。

  あ、だからみなさんも納得してね、ということではありません。あくまで僕個人が感じたことです。

  徳井はこう言ったのだ。

 

 「納税の意思はあるが、想像を絶するルーズさによって先延ばしにしてしまい、3年経ってしまった、ということです」

 

  わかる!

  いる、そういう人!

  というか、ある! 俺の中にもそういうとこ!

 

  と、正直、思ってしまったのだった。

  松尾スズキの最初の著作であるエッセイ集『大人失格 子供に生まれてスミマセン』(1995年・マガジンハウス刊、現在は光文社知恵の森文庫)に、『「面倒力」の脅威』という回がある。

  それまでカーテンというものを買ったことがなかったが、日当たりのいい部屋に引っ越したらまぶしくて不眠に悩まされた、でも数ヵ月がまんした、理由は面倒くさかったからだ、という話から始まって、

 「あきれてはいけない。面倒の力には侮り難いものがあるんですってば」

   と、「面倒力」の脅威について綴られていくのだが、まさにこれだ。「面倒力」だ。

  松尾さんはその「カーテン」の他にも、「部屋の4本の蛍光灯のうち3本が点かなくなった(2週間がまんしたそうです)ということと、2年前に買ったソファベッドが身体に比べて小さい(でも面倒だから買い換えない)という自身の例を挙げておられるが、自分に置き換えると、もう本当にいっぱいある、「面倒力」に負けて放置してしまっていることが。

  邦楽までは終えたが、洋楽に入るところで力尽きて半年経過の、仕事部屋のCDラックの整理とか。なんかいつの間にかヒビ入ってたけど、今んとこヒビだけなのでそのまま静観して8ヵ月が経つ、ベランダのガラス戸とか。

 

  という中でも、税務の申告って、相当高いレベルでの面倒だと思うのですね。

  僕などは確定申告の面倒さに負けて、すべて人に任せてしまっているのだが、それでもその「任せる」前の作業すら面倒に感じるくらいだ(任せてる人が読んだら怒るだろうな、これ)。徳井の場合、金額がでかい分、僕など比較にならないほど面倒だろうし。

  で、彼が「面倒力」との戦いに弱い人だとしたら。3年くらいほったらかし、というのもありえるなあ、と、納得してしまうのだった。

  税理士にはせっつかれていたそうなので、「ああ、ヤバいなあ、やらなあかんなあ、でもめんどいなあ……」というような。

  本気で脱税したかったわけではないと思う。だったらもっとうまくやるだろう。単に、本当に、「面倒力」に負けていたのではないか。

  なんだったら、税務署に言われたら払えばええわ、そこまで追い込まれんと動かんわ俺は、という境地にまで達していた可能性もある。

  税務署に言われたら、社会にその事実が晒されるし、追徴課税(3,400万円だったと報じられている)も食らう。その社会的制裁+3,400万円と面倒を天秤にかけて、面倒が勝っていた、という。

  すごいですね、「面倒力」って。

 

   と、だんだん彼をかばいたくなってくる、「面倒力」に負けがちサイドの自分なのだった。

  まあ、「ありえない!」という人が大半だろうけど、「金額でかいけど『ありえない!』とは思わない」という奴もいますよ、という話でした。

 

※10月26日追記

  本日、吉本興業のサイトにアップされた「チュートリアル徳井義実の税務申告漏れに関するご報告」によると、2009年の会社設立以来全然税務申告してなくて、税務署に指摘されて申告する、ということが3年に一回のペースで二度あった上に、その二度目の方は督促されても税務申告しなかったので、銀行預金を差し押さえられたそうです。

  で、そのまた3年後が今回の件である、という、何かもう、「面倒力」どころのレベルではない話だったのでした。

  すごいなしかし。預金を差し押さえられるまで払わないって。で、そのあとまたくり返すって。

  私の妄想の及ぶ範囲ではありませんでした。失礼しました。

日本の俳優、美男美女過ぎ問題

  もう1年近く前になるが、日本の俳優が、男前だらけ過ぎることについて、このブログに書いたことがあった。

これです。

http://shinjihyogo.hateblo.jp/entry/2018/12/17/105515

 

  まあそれを言い出したら、女優なんてもっとそうだし、日本だけじゃなくて海外だってそうだし(韓国映画はそうでもなかったりするけど)、要は、言ってしまえば、美男美女じゃなければないだけ稼げる俳優に育つ確率が下がる、だからどこの事務所も美男美女を探す、というのは、まあそうなるよなあ、とは思う。

 

  思うがしかし、映画にしてもドラマにしても、「そこまで美男美女揃いじゃあ、リアリティってもんがねえよ」と感じてしまうことは、やっぱりよくある。

  たとえば、9月に終わったNHK朝の連続テレビ小説なつぞら』。賛否両論いろいろあったこのドラマだが、僕は毎朝楽しく観ていた。朝7時半からNHK BSプレミアムで一回、8時からNHK総合でもう一回観ていたくらいなので、熱心な視聴者だった、と言っていいと思う。

  しかし。なつ(広瀬すず)たちが東洋動画で働いていた頃は、井戸原さん(小手伸也)とかいたからまだよかったが、マコさん(貫地谷しほり)が立ち上げたマコプロダクションに、主要な登場人物がみんな移って以降は、さすがに「いくらなんでも!」と言いたくなった。

  広瀬すず中川大志貫地谷しほり染谷将太渡辺麻友。犬飼貴丈。伊原六花。という面々が集まって働く会社。何それ。モデル事務所? え、アニメの制作会社なの? ないわ。ありえないわあ。というですね。

  伊藤修子を投入したのは、そのあたりのバランスをとろうとしたのだと思うが、全然足りない。よしもと男前ランキング最高位2位(2007年)、でもこの中では貴重なリアリティ側の人である麒麟川島とプラスしても、まだまだ弱かった。

 

  と、なんでとうに終わった『なつぞら』のことを今さら蒸し返しているのかというと、その「役者美男美女過ぎ問題」に意識的に向き合っていて、それによって引き起こされる「リアリティない」というデメリットをなんとかしようとしているクリエイターもいるんだなあ。と思わせる映画を、最近、二本続けて観たからなのだった。

  一本は白石和彌監督の『ひとよ』。もう一本は瀬々敬久監督の『楽園』だ。

 『ひとよ』は、佐藤健鈴木亮平松岡茉優の三兄妹とその母親である田中裕子が軸の話なのだが、さすが「イケメンが好きじゃないんですよ」と公言する白石和彌だけのことはある。松岡茉優が「今までに観たことがないくらい汚い佐藤健」と言っていたが、僕が思ったのもまさにそれだった。

  というか、あんたもな松岡茉優鈴木亮平もな! 四人の次に重要な役の佐々木蔵之介もな! と言いたくなるほど、見事に素敵じゃない、どの人も。うらぶれているし、鬱屈しているさまが、表情や言葉や立ちふるまいに出ていて。

   『楽園』の方は、綾野剛は白石作品の『日本で一番悪い奴ら』などで、素敵じゃない役をやるとちゃんと素敵じゃなく仕上がる人だということを知っていたが、杉咲花にはびっくりした。東京の市場でガラガラとワゴンを押して働いていたりする役なんだけど、「こんなかわいい子、働いてねえよ。いたら目立ってしょうがねえよ」という具合には、なっていないのだ。ギリギリのところで「まあ、いるかも」というラインをキープしているのである。なんだキープって。

  言っておくが、杉咲花がかわいくない、というわけではない。めちゃめちゃかわいいが、なんというか、不思議に「いねえよ」感のないかわいさなのだった。ただ、彼女の過去の出演作品がどれもそうだったかというと、そんなことはないわけで、つまりこれは撮る側=瀬々敬久の、手腕の問題なのだと思う。

 

 『ひとよ』は三兄妹と監督のインタビュー、『楽園』はフィルムレビューの仕事があったので、どちらも早めに試写で観たんだけど、そのポイントにおいて同じことを感じたもので、何か書いておこうと思ったのでした。

京都音博で観たNUMBER GIRL

  2019年9月22日、くるりプレゼンツ、今年で13回目になる『京都音楽博覧会』に行った。今年初めてROCK IN JAPAN FES.に行けなかった自分にとって、唯一の、一回目から全回参加できているフェスである。

  その全体のレポートはリアルサウンドに書いた。書いて送ってOKもらってから、けっこう経っているのに、まだアップされていないけど(10月7日現在)、そろそろ上がるのではないかと思います。

 

  今年の『京都音博』の大きなトピックは、復活から3本目となる(はずがライジングの1日目中止で2本目になった)NUNBER GIRLの出演だった。もちろん僕も楽しみにしていた。観た。すばらしかった。あと、前のnever young beachの最後の曲で降り始めた雨が本降りとなり、NUMBER GIRLが始まる頃には大雨、それが中盤を超えたあたりで小雨になって、ライブが終わる頃にはきれいに止んでいたのには、「演出か?」と言いたくなった。

  そのリアルサウンドの『京都音博』のレポでは触れなかった、自分の感想をひとつ、こちらに書いておくことにします。

 

  まず、この日のNUMBER GIRLのセットリスト。

1 鉄風 鋭くなって

2 タッチ

3 ZEGEN VS UNDERCOVER

4 OMOIDE IN MY HEAD

5 YOUNG GIRL SEVENTEEN SEXUALLY KNOWING

6 透明少女

7 日常に生きる少女

8 Tattoあり

9 I don’t know

 

  で。僕が特におもしろいと思ったのは、4人の演奏そのもの、向井秀徳の歌そのものだった。ご存知のように、4人とも解散後も活躍していて、長きにわたって経験を積みまくっているわけで、当時と比べると、ミュージシャンとしてのスキルや経験値、相当アップしているはずだ。

  という状態で4人が17年ぶりに集まったら、同じアレンジで演奏しても、昔とはかなり違った感じになるんじゃないか。「超合金NUMBER GIRL」みたいな鉄壁な感じになっているかもしれないし、落ち着いて飄々とした「超熟NUMBER GIRL」みたいな感じになっているかもしれない。

  というふうに変わっていた場合、俺はうれしいのかな、がっかりするのかな、どう感じるのかも含めて楽しみだな、と思っていたのだが。

 

  見事に昔のまんまのNUMBER GIRLだったのだ。僕がそう感じただけ、という可能性もあるが、でも、デビュー前後から解散まで何度もライブ観ているし、最後のツアーも札幌は観てないけどZepp Tokyoは観た、その僕の耳は「あの頃のまんまだ!」と感じた。

  めちゃめちゃヒリヒリしているし、荒々しいし、必死だし、尖っている。ZAZEN BOYSではもはや合気道の達人みたいな風格を漂わせる向井秀徳は、ここでは少年のようだったし、いつでもどのバンドでもどっしりと曲を支える中尾憲太郎のベースも、ここではやたらと攻撃的に耳に刺さった。

  技術とか経験とか以前に、この4人が集まるってこういうことなんだなあ、というのがわかった気がした。というか、この4人が集まらないとこうならない、ということか。だから中尾憲太郎が脱退すると言った時に解散した、誰かを入れて続けるという選択肢はなかった、ということなんだなあ、と。

  メンバー4人とも、NUMBER GIRLに来るとこうなるんだなあ、これがNUMBER GIRLなんだなあ、バンドっておもしろいなあ、本当に「人間と人間の組み合わせ」なんだなあ、などと、いろんなことを思いました、観ながら。

  そして、しみじみしました。解散の時にロッキング・オン・ジャパン誌でラスト・ツアーの特集記事の編集を担当して、自分もレポとか書いた者としては。