映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』について
燃え殻の小説『ボクたちはみんな大人になれなかった』に、映像化の話が来ている、と最初にきいた時は、実現はするだろうけど、おもしろいものにするのは難しいだろうなあ、と、正直、思った。
なんで。「文字で書いてあること」が、すごく重要な作品なので。ストーリーとか展開とか以上に、文体や言い回しや綴り方が、その魅力の大きな部分を占める小説なので。
その文章を目で追うことそのものが、読み手に快楽を与える、だから映像やマンガにする=文字表現でない形にすると、その威力が半減する。そういうタイプの作家が存在する、というのは、以前から、読者として、知っていた。
僕は昔、SIGHTという季刊の総合誌で『作家インタビュー』というページを担当していて、数年間、3カ月に一度のペースで、小説家に話を訊いていたのだが、「この人の小説、文章であることの快感がでかいから、映像にするの、難しいだろうなあ」と思っていたら、先方からその話を始めたことが、二回ある。
おふたりとも、その時点で何作も映像化されていたが、にもかかわらず、そういう自覚があったそうだ。
その話をきいてから10年以上経っているので、今はどう思っておられるかはわからないが(その後も何作も映像化されているし、話題になった作品も多いし)、当時、宮部さんは、「映画とかドラマ畑の方に、映像化がものすごくやりにくいって言われます」とおっしゃっていた(SIGHT2010年秋号掲載)。
で、「ああ、確かにそうだろうなあ」と納得した。宮部みゆきの数十年来のファンであるがゆえに。で、「とにかく目で字を追うこと自体が気持ちいい」というのが、その作品を読みたくなるいくつもの理由の中で、かなり大きいやつだと思っていたので。
逆に、己のそういう文体フェチの琴線に、まったく触れないタイプの小説もある。
たとえば、西村京太郎とか。大学生の頃にハマって数十冊読んだので、断言していいと思うが、「意味を伝える」以外のことを、潔いくらい放棄している文章である。逆に言うと、だからあんなに大量に映像化されたのかも、とも思うが。
話を戻すと、つまり燃え殻の小説は、西村京太郎側ではなく、宮部みゆき・伊坂幸太郎側である、と。だから映像化は難しいだろうな、どんなにいい役者が演じても、時代考証とか美術とかがどんなにしっかりしていても、原作でいちばん重要な「文章のあの感じ」は、消えちゃうだろうな。と思っていたのだった。
なので、観ていちばんびっくりしたのはそこだった。
「あの感じ」が映像になっている。現在から過去へ遡っていく全体の構成とか、ある部分は目まぐるしくある部分はオフビートな編集のしかたとか、撮り方とかで、それを表現している。
キャストがみんなすばらしいとか、時代の再現感とかゴールデン街の感じとかがリアルで懐かしかったり嬉しかったりするとか、いろいろな魅力のある映画だが、僕にとって、最もインパクトがあったのは、そこだった。
どうやってそれを可能にしたんだろう。というような話も出てくる、この映画の原作:燃え殻、監督:森義仁、脚本:高田亮がしゃべっているポッドキャストが、全4回、アップされています。司会、私です。Spotifyで聴けます。
以上、本日(2021年11月5日)が、映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』の公開日なので(Netflixと劇場の同時公開)、書いておこうと思ったのでした。