兵庫慎司のブログ

音楽などのライター、兵庫慎司のブログです。

己のキモさに気をつけよう

   9月20日の夜、大阪ABCラジオ『よなよな』木曜=鈴木淳史&原偉大の生放送の終わり際にちょっと出演させてもらって、思いつくまましゃべったことを、ちょっとちゃんと書きたくなったので、久々にブログを更新することにしました。

 

  この9月20日から23日まで、僕は関西にいた。そもそもは、きのこ帝国のニュー・アルバム『タイム・ラプス』の特設サイトに掲載される、佐藤千亜妃のオフィシャル・インタビューを、レーベルからご依頼いただいたところまでさかのぼる。彼女にインタビューしたのは初めて。前からきのこ帝国大好きだし、『タイム・ラプス』めちゃめちゃいいアルバムだし、とてもうれしい仕事だったのだが。

  このアルバムのツアーは、東京と大阪の2本だけ。で、東京の9月23日新木場スタジオコーストは、くるりのフェス『京都音楽博覧会』と日程が当たっていて、行くことができない。でも、せっかく仕事させてもらったし、『タイム・ラプス』の曲たちをライブで聴きたいし、じゃあいっそ20日の大阪なんばHatchまで観に行って、23日の『京都音博』まで関西にいることにしようかな、と。

  そういえば、GLIM SPANKYの企画イベントも東京大阪の2本で、東京の9月24日は別のライブ仕事で行けない、大阪は21日に味園ユニバースだ、じゃあ大阪で見せてもらえばいいじゃないか。というわけで、行くことに決めたのでした。

 

  で。関西行きを数日後に控えたある日。佐藤千亜妃のツイートを見て、その大阪なんばHatchのライブの日が、彼女の30歳の誕生日であることを知る。あ、そうなのか、終演後に関係者挨拶とかあるだろうし、じゃあ何かプレゼントでも用意した方がいいか、誕生日だって知っててスルーするのはちょっとなんだしな、何がいいかなあ……などと考えていて、ハタと気がついた。

 

  気持ち悪くないか? 俺。

 

  佐藤千亜妃の身になって考えてみていただきたい。数年前から何かっちゃあきのこ帝国をいいとか好きだと書いていた50がらみのおっさんライターに、仕事を1本依頼したら、その後の自分の誕生日のライブに、わざわざ大阪まで来た。しかもプレゼントを持って。

  どうでしょう。恐怖以外の何ものでもないでしょう、それは。いやいやいや、違うんです、そういうつもりじゃないんです、ただライブ観たいだけなんです、単に東京の日がダメだったんであって、その日が誕生日なのもたった今まで知らなかったくらいで……。

  どうしよう。手ぶらで行くのはやっぱりあれだけど、変に気合いが入ったものとかあげるのはヤバい、そうだ消え物がいい、食べればすぐなくなる少量のお菓子とかだな、そして万一スタッフとかに誘われても打ち上げに出るなんて絶対ダメ、終演後の挨拶を終えたらサッと会場を去ること! いや、もともと、終わったらABCに行って生放送終わりで彼らと飲もうと思っていたんだけど。そしたら「じゃあ放送にも出て」ってことになったんだけど。

  とにかくそのように考え、行きつけの焼き鳥屋で「キモく思われないためには何をさしあげるべきか」という相談までしてプレゼントのお菓子を買い、大阪まで行ってライブを観て、終演後の挨拶で本人にそれを渡し、そそくさと会場を出たのだった。

  そして、その勢いで『よなよな』に出て、もう我々はそんなふうに己のキモさに自覚的にならなければいけないステージに来ているんだ、きみ(鈴木淳史)と俺の違いはそこだ、きみはまだ自覚が足りない、俺はもう思い知ってるからそのへんに関しては、というようなことを、しゃべりまくったのだった。

 

  ここまで書いて気がついたが、ということは、僕は現在まで、己がそのようなキモいおっさんと化す危険性に関して、無自覚のまま生きて来たということになる。これまで、同じようにライブにマメに通いつめたり地方まで追っかけたりしていた相手が、奥田民生とかエレファントカシマシとかフラワーカンパニーズとかいったような、おっさんもしくはあんちゃんのミュージシャンばかりだったせいだ。佐藤千亜妃のようなミュージシャンにそういうことをしたことがなかったもんで、そこまで考えが及ばなかった、というか及ばせる必要がなかったということか。

  そういえばCharisma.comも大好きだけど、「マメに追っかけ回す」ほどのライブの本数じゃない人たちだったから助かっていたのか、俺は。じゃなかったら、彼女たちに対してもキモいおっさんになっていたかもしれない。

  ……あ! そういや今年の1月、魔法少女になり隊を観に名古屋のE.L.L.まで行ってしまった。この時もインタビューしたばかりだったのと、ツアーの東京の日程が先約のライブ仕事があって行けない状況で、でもワンマン観たい、そうだ名古屋在住の友達と飲みたいからそいつと飲むことにして理由をふたつにしよう、というわけで、そうしたのだった。

  ご本人たち、「名古屋まで来てくれたんですか?」と驚いておられた。ヤバい。gariとウイ・ビトンはいいが、火寺バジルと明治さんに対して、とてもまずい。呼んでもないのに名古屋まで来た。しかも自分のお父さんくらいの歳のおっさんが。怖い。怖すぎる。

  いや、普通のファンならいいよ? ファンであるという時点で、どこまで追いかけ回そうがその人の自由だし、言ってしまえばそうやって追いかけ回されることでミュージシャンは生計が成り立っているとも言えるし。でも俺はそうじゃないし。音楽業界人であって、彼女たちと仕事をして原稿料を得たりする立場なわけだし。

 

  住宅街で道に迷い、通りすがりの女性に教えてもらおうと声をかけたら、ギョッとされて一目散に逃げられた。ショックだったが、そのことによって、スーツ姿じゃない中年男性が、平日昼間の住宅街をウロウロしているという時点で、十二分に「怪しい人」ということになるのだ、と気がついた。

  というコラムを、以前、小田嶋隆さんが書いておられた。その方向でフルスロットルなケースが、今回の私のこの件、とも言えましょう。

  そうか。そりゃそうよね。『おっさんズラブ』だって、吉田鋼太郎だから視聴者にかわいいだの健気だの言われて愛されたわけで、あの役を蛭子能収とか温水洋一がやっていたら、あんなに人気出なかっただろうし。で、自分が鋼太郎サイドか蛭子温水サイドかと問われれば、明らかに後者だし。

  でもほんとはそっちの方がリアルなんだけどな。思い出した。大根仁監督のテレビドラマ版『まほろ駅前番外地』の、黒木華が自分を捨てて他の女のところへ行った元婚約者の指輪を取り返したいと依頼して来る話、そのモテモテの元婚約者、ハゲててもっさい役者を起用していた、大根さん。

  そう、現実ってこういうもんだよな、さすが大根さんだなあ、と感心したものです。

 

  最後に思いっきり話がそれたが、とにかく、日々気をつけて生きていくことにします。

丸山晴茂のドラムについて

 サニーデイ・サービスの通算4枚目のアルバムであり、ほぼアマチュア状態で始まったこのバンドが完成した作品である(と僕は思っている)『サニーデイ・サービス』。1997年10月21日リリース。

  演奏が素人だったり稚拙だったりしても、それが武器になったり魅力になったりすることがある、それがロック・バンドというものである、ということは、まずオリジナル・パンクで知ったし、90年代になってからは、初期ペイヴメントなんかのローファイなバンドたちからも学んだ。

  しかし、そういうガシャーンとした音ではない、アコースティック寄りで静かな歌もののバンド・サウンドでも、そういうことが起こり得る、それによって他の誰にもとっかえが効かないバンド・グルーヴが生まれるケースもある、ということを、最初に思い知らせてくれたのが、僕にとってはこのアルバムだった。

  僕は、デビューから解散までの間のサニーデイ・サービスのアルバムでは、最高傑作はこれだと思っているし、いちばん好きなアルバムもこれだ。

  中でも、1曲目の「baby blue」を最初に聴いた時のショックは忘れられない。曽我部恵一の弾くたどたどしいピアノ。田中貴の、「これセリフだったら棒読みレベルだな」ってくらい淡々としたベース。そして、丸山晴茂の、今にも止まりそうなドラム。「タメ」とか「後ノリ」という言葉では片付けられない、あの感じ。

  この曲に限ったことじゃないが、技術はないし、器用でもないし、「ドラムうまくなりたい」みたいな向上心もそんなになかったんじゃないかと思う。ただ、彼のドラムは、そのような、まさに「とっかえの効かなさ」を持っていた。

  この曲は、というか、このアルバムは、あらゆる意味で完璧だと思う。その完璧さは、狙っても誰も真似できない、というかおそらく本人も狙っていない、このノリのドラムがなければ生まれなかったものだ。と、当時思ったし、今でもそう思っている。この時期のサニーデイ・サービスの3人の、独特にもほどがあるグルーヴの中心になっていたのは、まぎれもなくこのドラムだった。

 

 「baby blue」の、1サビが終わって2コーラス目に入るところのドラムのフィル、「♪タッタッタ タッタッタドタドタ」ってやつ。譜面上は、ドラムかじったことのある人なら誰でも叩けるフレーズだ。僕もかじっていたので、個人練でスタジオに入った時に(なぜか20年ぶりにドラムが叩きたくなって、ひとりで叩いていた時期があったのでした、8年くらい前に)、何度も真似してみたんだけど、全然できない。あの感じが出せない。2サビから間奏~アウトロのドラムのバタバタ感も同じく。ああはならないのだ、どうやったって。

  だからこそ、曽我部と田中は、たとえいろいろ大変であっても彼とバンドを続けることを選んだんだろうし、再結成の時もあたりまえに声をかけたんだろうし、2015年の夏を最後に一緒に活動をできなくなっても「脱退」ではなく「お休み」ということで、帰りを待っていたんだろう。言うまでもないか。

 

  7月15日のお昼前、ローズ・レコーズのツイートで、丸山晴茂が5月に亡くなっていたことを知った。

  驚いたし、悲しかったし、とても残念だったが、それについて何か書くのは、最初、躊躇があった。

  曽我部恵一は、デビューの頃から『DANCE TO YOU』くらいの時期まで、何度もインタビューして来た。そういえば最近ご無沙汰だ、インタビューは。

  田中貴は、仕事はほぼしてないけど、けっこう長きにわたり、時々一緒にDJをやっている。要は遊び仲間ですね。亡くなったことが発表になった2日前の夜も、グレートマエカワや奥野真哉と一緒に、田中と僕とでイベントをやったばかりだった。

  でも、晴茂くんとは、僕はそこまでの関係ではなかった。もちろん面識はあったし、言葉を交わしたこともあるが、曽我部や田中ほどつっこんだ話をしたことはない。

  そんな奴がなんか書くのもなあ、3人とも面識ないくらいなら、むしろリスナーとして書けるけど、この関係性で何か知ったふうなことを言うの、微妙だなあと。

  でも、ツイートで簡単にお悔やみ言っておしまいにするのも、なんかなあ……という思いがあったのと、「すばらしい人でした」とか「すばらしいドラマーでした」とかいうような、「亡くなった人には賛辞を贈るのがマナー」みたいなことではない、もうちょっとリアルな彼の評価を、メンバー以外の誰かが書いてくれるならいいけど、もし誰も書かなかったらちょっとイヤだなあ、という気持ちが、どうしても拭えなかったので、1日遅れですが、書きました。

 

  あと、亡くなったけど、脱退はしていない。だから、いないけどメンバーなんだと思う、これからもずっと。

  曽我部が、晴茂くんがいないことを考えていて(彼が療養に入って離脱したばかりの頃だった)思いついたという「桜 super love」の意味が、曲が書かれた時よりも深くなってしまったなあ、とは思う。

 「きみがいないことは きみがいることだなぁ」という歌い出しのリリック、当然僕も、過去に同じようなことを考えたことがあったもんで、いい歌詞だなあ、すごくリアルだなあ、と感じたんだけど、それがまた、よりいっそうリアルに感じられるものになってしまったなあ、とも思う。

  そういう気持ちになることが、うれしいわけはないけど、でも、忘れたくないとも思う。

 

  ご冥福をお祈りします。安らかに。すばらしい音楽をありがとうございました。

インタビュー 録音できて いなかった

  って、五七五でタイトルを付けている場合ではない。

  ここ数日の間に行ったインタビューの音声データを、ICレコーダーからハードディスクに保存してデスクトップの「インタビュー音声」のフォルダにも入れる、という作業をしていて、血の気が引いた。

 

  そのうちの1本が、頭4秒で止まっていたのだ。

 

  インタビューが録音できていなかった、というミス、面識ない人もある人も含めて過去の事例はいくつか知っているし、その顛末が記事になった雑誌を読んだこともある(せざるを得なかったんだと思う)。が、まさか、自分がやらかすとは。仕事で人にインタビューするようになって27年経った今頃になって。

  このリスクを避けるために、ICレコーダーを2台回す人もいる。以前勤めていた出版社はそういうルールだった。なので、僕もそうしていたが、フリーになってからの3年ちょっとの間は、1台しか使っていない。

  心配性でビビリであるがゆえに、普段からICの状態をすごくチェックすることが習慣と化しているので大丈夫、と思っていたのと、インタビューって立ち会いの編集者もICを持って来て回すのが普通だから、万が一何かあったらそっちから音声を借りればいい、というのもあった。

  が、このインタビューに限っては、僕しかICを回していなかったことを、はっきりと記憶している。

 

  うわああああ! なんで頭で止まってんだ? 電池なかったのか? いや、1個メモリ減ったら電池替えるじゃんいつも、あと俺ちゃんとICが動いてるか気になってインタビュー中も赤ランプが点いてるかどうか何度も見るじゃん、なのになんで止まってるって気づかなかったんだよあああああもううううう!

  わからない。わからないが「4秒で止まっている」のは厳然たる事実なのだった。どどどどうしよう、先方に土下座するか、いやでも無理だろもう一回スケジュール切ってもらうの、あ、そうだ、指定された文字数の目安、そんなに多いテキストじゃなかったから、記憶を辿ればなんとかなるかも、何をしゃべってたっけ俺何を覚えてるっけ、じゃあちょっとでも覚えてるうちに全部書き出そう、それをやってみて「無理! 内容的にこれじゃもたない!」ってなってからにしよう土下座するのは、ああもうそれにしても本当にいいいいいい、つくづくICもう一個回しとけばよかったあああああ!

 

  というわけで、もうパニックで、半泣きになりながら、とにかく記憶にある発言をメモしまくった。で、途中で、そうだ俺ICレコーダーからハードディスクに音声を移してる途中だった、それ以降のインタビューも保存しとかなきゃ、と気がついて、もう一度ハードディスクを開いたところ。

  その4秒の続き、既に保存されていました。

  ハードディスクにも、デスクトップのフォルダの中にもあった。要は、数日前に保存し終えていたのに、そのことを忘れていた、というだけだったのでした。

 「あ、電池減ってる」とかの何かがあって、頭4秒で自分でICを止めて、もう一回スタートしてインタビューを録った、ということなのだと思われる。で、保存する時に、その頭4秒の方の音声ファイルをそのままほったらかしにしていたのだ。

  あと、普段インタビューって古いものから順に保存していくんだけど、この時僕はなぜか、いちばん古いインタビューはICレコーダーに残しっぱなしで、2本目に古いこのインタビューはハードディスクに移していた、というのもある。

  そのふたつのトリックが合わさって、まるで「トラブルで頭4秒でICレコーダーが止まった」かのような状態が作り出された、という結論です。

 

  何がトリックだバカ。

  とにかく、全身の力が抜けて身体がグニャグニャになるほど安堵しました。

  そして、己のアホウさにつくづくあきれました。

  とりあえず、もう一台ICレコーダーを買います。

  あと、「ICレコーダーを回す」って変か、「回す」ってカセットテープでインタビューを録音していた頃の言い方だな、と書いている途中で気がついたけど、でもなんとなく好きな言い方なので、そのままにしておきます。

夏フェスは暑い

  昔の日本の夏の暑さと今の日本の夏の暑さは違う。今の方が断然きつい。なのに、いまだに夏の高校野球大会を7月から8月に、つまり1年のうちでいちばん暑い時期に行っているのは、いかがなものなのか。なぜわざわざその時期にやらなければいけないのか。球児たちのことを考えるなら、前倒しするなり遅らせるなりするべきではないのか。

 

  というような議論、夏になると毎年必ず見かける。去年か一昨年あたりから「こんなに暑くて2020年の東京オリンピックは大丈夫なのか」という問題提起も出るようになった。

  もっともだと思う。たとえばインドとかの昔から死ぬほど暑い国の人たちから見たら、真夏の屋外の高校野球なんて「正気か?」というふうに見えるだろうし。

  ただ、我々の場合、そんな高校野球の異常さを指摘している場合ではないのだった。そうだ。夏の野外のロック・フェスだ。1年でいちばん暑い時期に、何を好き好んで、しかも安くないカネまで払って、朝から晩まで1日中屋外ですごすのか、我々は。という問題だ。

  つい数年前まで「だってそういうもんじゃん」と思って納得していたのだが、それこそ「高校野球どうなのよ」という議論が出始めた頃、それよりも「夏の野外フェスってどうなのよ」の方が、自分のような人種にとって喫緊の課題であることを、自覚せざるを得なくなったのだった。

 

  特にこの問題、真夏以外の時期の野外フェスに行くと、身体で思い知ることになる。

  ゴールデンウィークの前半に開催される『ARABAKI ROCK FEST.』に初めて行った時は、衝撃を受けたものです。「す、すごしやすい!」と。寒くて大変な年もあるらしいが、僕は当たったことがない。

  行ったことのある方はご存知だと思うが、『ARABAKI』の特徴って「黄緑」なのだ。自然に囲まれた素敵な環境なんだけど、まだ春先で、緑が濃くなくて全体的に黄緑なのね、木も草も。あれを見ると「ああ、『ARABAKI』だなあ」と思います。とても気分がいいです、その場にいること自体が。

  それくらいから6月頭の『TAICOCLUB』あたりまでは、夜は寒いこともあるが日中はとにかく快適である。で、7月に入ると暑くなり始め、フジロック→ロック・イン・ジャパン→サマーソニックくらいが暑さのピークになる。

  で、9月に入るとやや落ち着き始め、10月8日前後の『朝霧JAM』になると、山の中であることも手伝って「陽が暮れると鬼寒い」というような具合になる。日中はTシャツ1枚でも大丈夫、でも寝る時は持って行った衣服すべて着て寝袋に入ってガタガタ震える、そして朝目が覚めると陽が昇っていて寝袋の中で汗びっしょりになっている──というのが、天気がよくて富士山が見える時の『朝霧JAM』です。

 

  今年の春から初夏にかけては、『ARABAKI』『VIVA LA ROCK』『JAPAN JAM』『METOROCK(東京の)』『TAICOCLUB』に行った。『VIVA LA ROCK』は屋内だから除くとしても、いちばん暑かった『METROCK』でも、真夏のフェスに比べたらはるかに快適だった。あたりまえなんだけど。まだ夏じゃないんだから。

  書いていて思い出した。昔、会社の後輩の子が『朝霧JAM』に行きたいと言うので、一行に加えて連れて行ったことがある。

  出発前夜、その子が家で準備していたら、お母さんが「どこに行くの?」と訊いて来た。

 「野外フェス」「どこであるの?」「朝霧高原」「泊まりはどうするの」「テント」

  そこでお母さんにこう言われたという。

 「あなた! 秋よ!」

  確かにそうなのね。キャンプって夏のもんなのね、あたりまえに考えたら。

  というわけで、フェスに限らずかもしれないが、自分は異常なことをしているのかもしれない、という自覚は、持っておいた方がいいんだなあ、とよく思うのでした。

  考えたら、今でも仲いい高校の頃のバンド仲間とか、普段よく一緒に飲む音楽業界以外の知人とか、みんな「フェス? 行ったことない」って人ばっかりだし。

フェスと体力の話

  5月27日、東京・新木場若洲公園の『METROPOLITAN ROCK FESTIVAL 2018』、通称『METROCK2018』の2日目に行った。仕事で行ったんだけど、ライブを観てレポを書くとかは一切ないという、自分的にちょっとめずらしい参加のしかたでした。

  その仕事の事情で、男性ひとり女性ひとりと、終日一緒に過ごした。ふたりともフェスは初体験だったそうだが、開演30分前の11時頃に着いて、3つのステージを移動しながらいくつかライブを観終わった頃のこと。

 

 「体力が残り3割を切りました……」

 「私もです……ちょっと休みながらにした方がいいかもです」

 

  と、ふたりが言う。

  びっくりした。いやいやいや、まだ14時じゃん。ちょっと歩いただけじゃん。確かに5月にしては暑い日だけど、真夏のフェスに比べたら……あ、そうか、この人たち、その経験はないのか。でも、『METROCK』って端から端まで歩いても15分くらいの、こぢんまりしたフェスなのに。

  男性は31歳、女性はそのちょっと下。若いじゃないか。ふたりとも「普段デスクに向かいっぱなしの仕事で、ほんとに体力がないんです」と言うが、いや、俺だってそうだよ……と、思ってから、気がついた。

  週に何度も2時間とか2時間半とか立ちっぱなしでライブを観て、フェスの季節になると毎週末のように1日20キロとか歩いている僕のような奴は、決して「俺だってそうだよ」ではないことに。

 

  そう考えれば、音楽ライターというのは、たとえば映画や演劇なんかの他ジャンルのライターに比べて、体力が必要な職種なのかもしれない。音源とライブの比重が完全に入れ替わった、ここ10年くらいで特にそうなったとも言える。

  あと、前から僕が気になっていたこととして、「音楽ライター、意外とフェスに行かない」というのがあった。レポを書くとかで、フェスに行く=そのまま仕事になることが、世間のフェスの多さのわりに、実は少なかったりする。という事実はあるが、仕事にならなくても行く僕からすると、「行きたくならないの?」「気にならないの?」と不思議に思う。

  で、フェスが嫌い、あるいは興味ない、だから行かない、というならわかるが、そんなふうでもないようなのだ、みなさん。出演アーティストが発表になるとツイートで感想を述べたりとか、あそこのフェスは嫌だとか、ネットのフェスの即レポって意味あるのか? とか、フェス関連について何か言いたくはあるようなのですね。でも、現場にはそんなに行かない、行くとしても好きなバンドが来日する年だけ、というような。

  普通の音楽ファンならわかる。仕事が忙しくて行けないとか、子供が小さくて無理とか、当然あるだろう。でも、我々、普通の音楽ファンとは言えないし。音楽の仕事で食ってるんだから。

 

  あれ、なんでだろうね? と、ライブもフェスも僕以上に行きまくっている、後輩のライター(と言っても余裕で40オーバー)に訊いたら、彼は簡潔にこう答えた。

 「しんどいからですよ」

  え? だって40代半ばのきみや、今年50の俺はがんがん行くじゃん。

 「だから、僕らの方が異常なんですよ。僕ら、体力ある方なんですよ。兵庫さん、毎週何十キロもバカみたいに走ってるじゃないですか。僕もバスケめちゃめちゃやってるし」

 

  誰がバカみたいだ。とイラッとしつつも、思わず納得した。そういえば「よくフェスに行く」側のライターは、ほぼ例外なく、我々と同じように普段から走ったりしている人たちだ。

  「とにかく、自分が標準だと思わない方がいいですよ。真夏のフェスって、興味あっても行くのをためらう程度にはしんどいものなんですよ、普通は」と、彼は言うのだった。

  確かに。普段生活していて、1日に20キロ以上歩くことなんて、まずないですよね。

  そういえば昔、北海道のRISING SUN ROCK FESTIVALに初めて行った時、取れた駐車場が会場から遠目の場所だったのと、テント券がいちばん奥のエリアだったのが重なって、「レンタカーを下りて入場ゲートをくぐって自分たちのテントの場所まで歩く」が、「渋谷から三軒茶屋まで歩く」ぐらい時間がかかった。

  夜中に連れのひとりが「クルマに忘れ物したから取ってくる」とテントを出て行って、いつまで経っても帰って来なくて、ずいぶん経ってからやっと戻って来たので、「どこ行ってたの?」と訊いたら「クルマまで行って戻って来ただけだよ!」とキレられたのを憶えています。

 

  で、これ、もちろんライターに限った話ではないわけだ。つまり、普通にあちこちの野外フェスに足を運んでいる30代や40代や50代のあなたは、そういうのに興味のない同年代の職場の同僚と比べると、異様に体力がある人だということです。

  だからなんだ。と言われれば、「いいえなんでもありません」と答えるほかないが。

 

  ちなみに、『METROCK』であっという間にバテた若いおふたりは、ブースで無料配布されていたモンスターエナジーと、それぞれのアクトのライブのすばらしさに助けられて、結局、大トリのサカナクションが終わるまで、フェスを満喫することができました。「モンスターエナジー、効きました!」と何度も言っていた。

GLIM SPANKYは革命を起こしたのかもしれない

   と、2018年5月12日の、GLIM SPANKY初の日本武道館ワンマンに行って思った。すばらしいライブだった。で、なんとも感慨深い気持ちに包まれながら、全25曲のライブを堪能させていただいた。

 

  ただし、その感慨、「遂にここまで辿り着いたか、この人たち」みたいなことではない。GLIM SPANKY、武道館くらい余裕でできるようになるだろうと思っていたし。むしろ、「武道館すっ飛ばして横浜アリーナとか幕張メッセとかに行っちゃうかも」とすら思っていた。ある部分はオールド・ウェイヴだけど、ある部分は普通に今の若者たちである松尾レミと亀本寛貴、ふたりとも日本武道館というハコに対する思い入れとか、特にない様子だったし(という印象を、最初にインタビューした時に受けました)。

  僕が感慨を覚えたのは、武道館を埋めたお客さんに対して、なのだった。

 

  2014年にGLIM SPANKYがデビューした時、まっ先に飛びついて絶賛した著名人は、みうらじゅんだった。次いでリリー・フランキー。その後もあちこちから高い評価を得ていき、2015年12月には桑田佳祐TOKYO FMの自身の番組『桑田佳祐やさしい夜遊び』で「2015年邦楽シングルベスト20」の2位にGLIM SPANKYの「ほめろよ」を選出する、という事態にまで至る。

  ちなみに、音楽雑誌ロッキング・オン・ジャパン誌で最初に絶賛したのは、洋楽誌邦楽誌総編集長の山崎洋一郎(1962年生まれ)だった。もうひとつちなみに、僕(1968年生まれ)が最初にGLIM SPANKYをインタビューしたメディアは、週刊SPA! だった。おっさんが読む週刊誌で、その中でもおっさん寄りのライターがインタビューした、ということですね。

 

  このように、新人アーティストがおっさんから支持される、というのは、「耳が超えたファンに認められる」みたいな捉え方もできるけど、必ずしも全面的にいいことだとは限らない場合もある。と、僕は経験上知っている。30代40代の音楽業界人や大人のロック・ファンは大喜びしたが、若い層にまでは支持が広がっていきませんでした、みたいな具体例が、これまでにいくつかあったので。

  つまり、大人にばかり支持されていると、いつか頭打ちになるのではないか? 若年層のファンも取り込んでいかないと、たとえば「O-EASTまでは満員だったけどZepp Tokyoからキツくなる」みたいな事態になるのではないか? という心配が、僕にはあったのでした。

  心配なあまり、リアルサウンドのインタビューで、ご本人たちにそういう話をしたこともある(こちらです。http://realsound.jp/2016/07/post-8141.html )。

  もちろん、そんなことを言われても困るばかりなのだった、おふたり的には。失礼しました。

 

  その僕の不安は、ワンマン・ライブに行くと、さらに裏付けられることになる。やはりというか予想以上というか、驚くほど平均年齢が高く、男が多い。長髪率や革ジャン率、洋楽バンドのTシャツ着用率も高い。

  やっぱりこれ、いつか頭打ちになる時が来るんじゃないか? と、心配しながら、赤坂BLITZ、新木場スタジオコースト、と、規模が大きくなっていくワンマンを追っていた。

  その認識が変わったのは、2017年6月の、初の日比谷野音ワンマンだった。3000人オーバーに拡大したキャパがソールドアウトしたこの野音でも、その客層の状態、変わらなかったのだ。

  あれ? この規模でも大丈夫なんだ? じゃあ、もしかして、このままどこまででも行けるってこと? 若年層にリーチしなくても、新たなおっさんを増やしながら、規模拡大しつつ進んで行くのが可能っていうこと?

 

  可能、っていうことなのだ、どうやら。という事実を証明したのが、この日本武道館だった、というわけです。

  「Charのワンマンか?」「昔の大物外タレか? チープ・トリックとかの」などと言いたくなるような空気だった、ロビーも客席も。

  いや、さっき書いた「若年層にリーチしなくても」というのは言い過ぎでした。若い世代のファンや、女の子のファンも、以前より確実に増えているのが目に見えてわかる。フェスに出たりした効果だと思う。ただ、そっちも増えているんだけど、それによっておっさんファンが減ってはいない、むしろキャパ拡大した分おっさんも増えているので、薄まった感じがしないのだった。若いファンが増え始めたことによっておっさんファンの増える勢いが下がってはいない、ということだ。

 

  日比谷野音の時も頭によぎったが、この日、確信に変わった。GLIM SPANKYのこのファン層、ここまで来ると、もう「現象」と呼んでいいのではないか。10代20代をつかまないことにはブレイクが不可能だった、日本のロック・シーンにおける革命なのではないか。

  これで、若いファンの方は本当に一切増えていない、というのであれば、さすがにちょっと不安になるかもしれないが、先に書いたようにそんなことない、そっちはそっちで増えているからいいや、というのもあります。

  4月28日にARABAKI ROCK FEST.でもGLIM SPANKYを観たが、その時の集客もすごかったし。私、まったくテントに入れなくて、外で聴きました。

 

  なぜGLIM SPANKYの音楽がそうなのか、については、正直、よくわからない。BUMP OF CHICKENでロックに目覚めた松尾レミと、GLAYがきっかけでギターを持った亀本寛貴のユニットが作る音楽が、なぜそんな現象を起こしているのか、については。

  そもそも、彼女たちがルーツにしている60年代の英米のロックって、彼女たちのファンであるおっさん連中にとっても、リアルタイムではない。それこそ渋谷陽一くらいの年齢(1951年生まれで67歳)じゃないと、リアルタイムでは知らないだろう。

  後追いで古いロックを聴いています、そういうのが大好きです、というのはあるかもしれないが、でも、たとえば今年50歳の僕だって、あたりまえにそういうルーツ・ロックを聴いてきたけど、同時に、その時代時代で、テクノやハウスやヒップホップもあたりまえに聴いてきた。GLIMのファンだってそうだろう。つまり、昔っぽいロックだから昔を生きてきたおじさんたちが飛びつく、というような簡単な話ではない、ということだ。

  60年代・70年代の洋楽に近い音を出すバンド、昔もいたし、今もいるし、きっとこの先も出て来るだろうが、その人たちがGLIM SPANKYのような支持の集め方をして来たか・して行くか、というと、そうはならないんじゃないか、とも思う。

 

  とにかく。言わば「日本のロック・バンドの、新しいファンの獲得のしかた」のモデルケースが、こんなふうに増えていくのは、いいことだと思う。

  GLIM SPANKY、何年か後には、ローリング・ストーンズの来日公演とおんなじ感じの客席になった東京ドームで、ワンマンをやっているかもしれない。

  逆に、ここから若いファンの増加率が一気に巻き返して、普通の客席になる可能性もある。どちらにしても、楽しみです。

フラカンと田島貴男が同じステージに立った日、に思ったこと

   2018年4月21日土曜日、新宿ロフト。『シリーズ・人間の爆発』で、フラワーカンパニーズ田島貴男と共演した。同イベントはフラワーカンパニーズが続けている対バン企画で、田島貴男は全国ツアーやライブ作品リリースするなど精力的に活動している『ひとりソウルショウ』でのステージ。

  この日のMCで鈴木圭介も改めて説明していたが、きっかけは1年前、2017年3月1日のTHE COLLECTORS日本武道館で、圭介と田島が隣の席だったことだそうだ。それまで長きにわたり接点はなかったが、ORIGINAL LOVEのファースト・アルバムに衝撃を受け、それ以来好きだったという圭介が挨拶し、田島が「フラカン? あ、『深夜高速』の? あの曲ヤバいよねえ!」と絶賛、メアドを交換したところから交流が始まって、このゲスト出演が実現したという。

 

  今の田島貴男のライブはヤバい、特に『ひとりソウルショウ』がえらいことになっている、というのは、ファンはもちろん彼の仲間のミュージシャンたちの間でも知れわたっているが、「まさに!」な、もう圧倒的としか言いようのないパフォーマンスだった、この日も。

  「接吻 kiss」「朝日のあたる道」「夜をぶっとばせ」「JUMPIN’ JACK JIVE」など自身の代表曲を連発、この日の2日後に配信リリースされた新曲「HAPPY BIRTHDAY SONG」もプレイ、さらにフラカンの「深夜高速」のカバーも披露。

  初めて観るわけではない僕でもビビったので、初見のフラカンファンはもう度肝を抜かれたと思う。田島貴男がキックとギターのボディを叩いて作るビートに合わせて、曲の頭で客席から手拍子が起こるが、歌が入るとそれがだんだん止まってしまう、でも曲が終わるとドーッと拍手&歓声。つまり「盛り上がらなくて手拍子止まる」のではなくて「あまりのすごさに見入っちゃって手拍子するの忘れる」みたいな空気だった、終始。

 

  そんな田島貴男の大熱演を受けての、フラワーカンパニーズ鈴木圭介の、最初のMCでの発言。

  「27年前の自分に言いたい。続けろ! 続ければ田島貴男がおまえの曲を歌ってくれる日が来るぞ!」

  ORIGINAL LOVEのファースト・アルバム、リリース当時、聴いて衝撃を受けたという。で、自分の携帯のメアドをそのファースト・アルバム収録の曲名から付けていて、なのでメアド交換の時、恥ずかしかったという。

  フラカンORIGINAL LOVEをカバー、曲はそのファーストから「LOVE SONG」(メアドにした曲はこれではないそうです)。演奏が終わってグレートマエカワ、当時、圭介とミスター小西が「すごいのが出て来た、これ聴いて!」と機材車の中でORIGINAL LOVEのファーストをかけていたのを思い出す、という話をした。

 

  そしてアンコールでは、フラカン田島貴男が加わって「真冬の盆踊り」をやる、というサプライズもあり。楽しそうにテンション高くはっちゃける、ステージ上の5人とステージ下の満員のお客さんたちを観ながら、さっきの圭介の「27年前の自分に言いたい。続けろ!」を思い出し、なんだか勝手に感慨深い気持ちになってしまった。確かに、こうして一緒に曲をやる日が来るとは思ってもみなかったよなあ、と。

 

  フラワーカンパニーズがデビューした1995年は、渋谷系全盛期だった。で、ORIGINAL LOVEは、そのトップを走る存在だった。って、ご本人的にはそう扱われることに対して、当時はいろいろ思うところはあっただろうけど、引いた視点で見たらそうだったのは事実だと思う。

  しかもORIGINAL LOVEは、その、当時の渋谷系の人気ミュージシャンたちの中でも、実力と人気が伴っているという意味でも、セールスと評価が両立しているという意味でも、かっこよくてオシャレでイメージがとてもいいという意味でも、一部のとんがった音楽ファンだけでなく一般層まで人気が広まっているという意味でも、突出した存在だった、と言っていいと思う。

  その、渋谷系とは一切関係ない、ライブハウス・シーンから這い上がって来てデビューした、コテコテに泥くさいバンドがフラワーカンパニーズだったわけです。

  彼らもまさか渋谷系に混じりたいとかは思ってなかっただろうし、そもそもそのへんのアーティストたちを好きだという話も当時きいたことなかったが、圭介にとっての唯一の例外がORIGINAL LOVEだったんだなあ、と。たぶん、歌がバケモン並みにうまいのと、ブルース・フィーリングの色濃いところが、圭介の好みにはまったんだと思う。

  でも、好きで聴いてはいたけど、そんな状況だったので当時は接点ができることなどなかったし、その後の長い活動の中でも、どこでもリンクせずに来たのが、まさか今になって共演できる日が来るとは。

  ということで、前述の圭介の言葉が出たんだろうし、観ている俺も感慨深い気持ちになったんだなあ、という話だったのでした。

 

  昔、別のミュージシャンでも、これに近い感慨を覚えたことがある。

  O.P.KINGだ。2003年、奥田民生YO-KING、はること大木温之佐藤シンイチロウが結成した期間限定バンド。当時YO-KING真心ブラザーズは活動休止中だったし、はるとシンちゃんのTheピーズは前年に活動再開したばかりだった。

  で、これはご本人たちの意識の話ではなくて、僕個人の感じ方なんだけど、1990年頃のバンド・ブーム当時、奥田民生YO-KING&Theピーズって両極にいるなあ、いちばん遠いよなあ、という印象を持っていたのだった。

  「バンド・ブームの寵児」がユニコーンで、「バンド・ブームのはぐれ者」がTheピーズ真心ブラザーズ

  ちゃんとブームにのっかって人気者になってから、そのポジションを活用して好き放題かつ型破りな活動をしつつ、でもその「ブームに求められるもの」にも応えていたユニコーン

  バンド・ブームのまっただ中、アルバム2枚同時発売という当時ありえなかった形でデビューしたと思ったら、その直後にドラムがやめてしばらく活動が止まって、再開したら新メンバーのウガンダはドラムを叩いたことのなかった素人で、それ以降もバンド・ブームに背を向けた、アンチ・メジャーな活動を選んで行ったTheピーズ

  バンド・ブームへのカウンター的なフォーク・デュオというスタイルで現れ、「きいてる奴らがバカだから」とか「龍巻のピー」なんていう、バンド・ブームを皮肉った歌を歌っていた真心ブラザーズ

  どうでしょう。遠い感じがするでしょう。将来一緒にバンドやることになるとは思わないでしょう。ユニコーンと真心は同じ事務所では? と思われるかもしれないが、真心はデビュー当時は事務所なかったし。SMA(当時はまだCSAか)に入ったのは、確かセカンド・アルバム『勝訴』か、サード・アルバム『あさっての方向』の頃なんじゃないかと思う。で、入ったあとも、ロッテンハッツと一緒のイベントに出たりはしていたけど、ユニコーンやOTまわりと接点ができたのは、数年経ってからだし。

  という話を、地球三兄弟の時のインタビューで、OT・YO-KING桜井秀俊にしたら、「べつにそんな遠いとか思ってなかったわ」って言われましたが。

 

  書いていて思い出したけど、今、フラカンBRAHMANと接点あるのも、同じように「遠くにいたのに今は近い」感じ、ありますね。90年代後半のAIR JAM勢と同じ時代に活動していた頃は、まるっきり接点なかったし。というか、そのブームに負けていったバンドだったし。

 

「だからなんだ」と言われると、「いいえなんでもありません」としか答えようのない話なんだけど、ついしみじみしたもんで、なんか書いておこうと思ったのでした。