兵庫慎司のブログ

音楽などのライター、兵庫慎司のブログです。

いいじゃねえか違ったって

  この間、こんなツイートをした。

 

  僕が好きな映画を友人がボロクソに言っているツイートが流れて来て、「俺はおもしろかったけど!」と彼に送ろうとした次の瞬間、そうやって「俺は違う」と伝えないと気がすまない時点で病んでいると気がついてやめた。いいじゃねえか違ったって。

 

  これ、1週間でリツイートが250を越え、いいねが1350を越えた。普段はリツイート1ケタがあたりまえなので、びっくりした。で、そういえば、1年くらい前にも、ちょっとびっくりした、というか興味を持った、これに近いことがあったのを思い出した。

  2017年の夏、SUUMOのサイトの作家やライターが自分のなじみの土地について書くコーナーの執筆依頼をいただき、地元広島について書いた。その中に、僕の周囲の東京に住んでいる広島出身の人はみんな地元が好きで、いつかは帰りたいって言うんだけど、みんな僕と近い業種で、それだと東京にいないと仕事ができないからなあーーというようなことを書いたところ。

 「自分は広島出身だけど広島にはあんまり帰りたくない、典型的な田舎で居心地はよくない」という感想が飛んで来た。なんで?と思った。広島が嫌いだということについてではなく、それを僕に知らせて来ることについて。

  いや、そりゃもちろん広島が嫌いな広島出身者だっているでしょ。だから俺も「僕の周囲は」というふうに限定して書いたわけであってですね。「広島出身者はみんな広島が好き」と書いているなら「俺は違う」と反論したくなるのもわかるけど。

 と、ここまで考えてから気がついた。たぶん、彼が僕のその文章を読んだ時点で、彼にとっては自分が「僕の周囲」ということになったのだ。逆に言うと、僕の目に入る形で彼が何か言える状態にある、という時点で、彼にとっては自分が「兵庫の周囲」である、ということなのだろう。

 でも、もしそうだったとしても、彼が間違っているとは言えない。SNSってそもそも、そんなふうに、自分の周囲と周囲以外の境界線が消える、もしくは限りなく曖昧になるということが画期的だったがゆえに、ここまで広がったのだ、というものでもあるので。

 

 というのを、自分の件に戻して考えてみる。僕の場合、その映画の感想が自分とは違っても、それが見ず知らずの他人だったら「ふーん」で終わりだっただろう。でも、自分と趣味が合うと思っている、長い付き合いの友人だったから「えっ?」と驚き、本人に「俺は違う」と伝えたくなったのだろう。

 はい、問題はここです。なんで伝えたいの? たとえば、そのツイートからするに、どうも友人が怪しげな宗教にはまっているらしい、心配だ、とか、自分からするとあきらかに「それはダメだろう!」という政治的信条を友人がツイートしているとか、そういうことなら「それは違う」と伝えたくなるのはわかる。

 あるいはこのたびの東京オリンピック、世間はすっかり「決まったんだからみんな応援すべし」って風潮だけど、俺は今でもやるべきではないと思ってるからな、同調圧力に屈しないからな!という気持ちだったら、というか実際そういう気持ちなんですが、とにかくそういうことであれば、そこで「俺は違う!」と声を挙げたくなるのも納得できる。

 でも、映画の感想だよ? 急いで本人に伝えるほどのことじゃないじゃん。次に会った時に言う、程度でいいじゃん。なのに「俺は違う」とすぐ伝えたくなる。自分と親しい人間が自分と意見が違うことが許せなくなる。同調圧力か嫌いって書いたばかりなのに、自分も人に対して同じような感情を持っている、とすら言えるかもしれない。

 という事実に、「ああ、病んでるなあ俺」と思ったのでした。世の中全体がそのような「人は自分とは違う、違っていてもいい」という多様性を認めない方向に進んでいる、という認識はあったが、まさに自分もそうなっていると実感した、ということです。

 

 あと「SNSだから」「ネットだから」というのもあるか。広島嫌いの彼も、インターネットのない時代で、僕が書いたその原稿が雑誌に載っていたのだとしたら、ハガキを買って来て、その表に編集部の住所、裏に「俺は違う」と書いてポストに投函する、なんてことはしないだろう。めんどくさいから。SNSでパッと送れるから書いたのだろう。逆に言うと、SNSでパッと送れるようになって以降、「自分の気持ちになんかひっかかったらそれをすぐ本人に言うべき」みたいな考え方がしみついた人が、(自分も含め)多くなっている、ということだとも言える。

 

 書いていてもうひとつ思い出した。2、3年前だったと思うが、僕が何か書いたことに対して(何を書いた時かは忘れてしまった)、同業者の知人に、ひとことで切って捨てるような批判のツイートをされた。たとえばブログとかで「それは違うと思う」と、ある程度の文字量でそう思った理由が書いてある、とかならわかるが、そうではない。ひとことでバサッ。先輩後輩で言うと、相手は後輩。

 批判されたのはいいとしても、こいつ次に俺に会った時どうするんだろう、と思っていたんだけど、どうもしなかった。普通に和やかに接して来て、その件については何にも触れない。

 つまり、そいつにとっては、SNS上で誰かを批判するという行為と、その人と実際に会ったり話したりするという行為が、完全に分断されているということだ。批判したこと自体、忘れているのかもしれない。

 うわ、これはこれで病んでるなあ、きっと俺だけじゃなくていろんな人に同じことをやってるんだろうな、だとしたらそれ、すっげえ日常生活に支障をきたすだろうなあ、と思いました。

 

 どう締めればいいんだかわからない文章になってしまった。

 とにかく、そのようなことに日々自覚的でいないと、そして常に自分を律して気をつけていないと、危険だなあ、と思うことが多いです、最近。という話でした。