兵庫慎司のブログ

音楽などのライター、兵庫慎司のブログです。

「俺たちの明日」の話  

 エレファントカシマシといえば、「今宵の月のように」と「俺たちの明日」。ということになっている風潮に、実は、ちょっとだけ違和感がある。「今宵の月のように」はいいが、「俺たちの明日」の方に。

 なぜこの曲がそういう存在であるのか、については、よくわかっているつもりだが、「今宵の月のように」と比べると、自分の中の「好き度」が負けるというか(「今宵〜」を好きすぎる、という可能性もある)、「確かにいい曲だけど、エレカシには他にもすげえ曲いっぱいあるぞ」的な、己の中の「めんどくさいファン」成分が発動、みたいなところがある、というか。

 

 その理由について、いろいろ考えたこともあったが、答えが出ないので、そのまま放置して幾年月が経過。だったのだが。

 2021年3月3日(水)放送の『佐久間宣行のオールナイトニッポン0(ZERO)』。この数日前に報じられた、3月いっぱいでテレビ東京を退社するということに関して、その理由や、経緯や、今後などを、番組冒頭でリスナーに報告した佐久間宣行が、その話の締めにかけたのが、「俺たちの明日」だった。

 

 めちゃめちゃ感動した。

 なんていい曲なんだ! と思った。

 曲がアウトロにさしかかるあたりでは、もう、ほとんど、感極まって泣いていた。

 で、そういう感情に陥った自分に、びっくりしたのだった。びっくりしたというか、混乱した、と言ってもいい。

 なんなんだ、この俺の「感情の掌返し」は。佐久間さんが人生の岐路に立って決断をした、という話をした(笑いを大量に交えながらだけど)、その流れで聴いたら、「ああっ、すげえいい曲!」と大感動。って何? どういうこと?  簡単すぎない? 俺。

 べつに佐久間さんの行く末に関して、そこまで親身になって心配していたわけでもなかったのに。いや、興味はあったし、おもしろがってはいたけど、あんな優れたスター・プロデューサーの独立に対して、「心配」とか「共感」とかの気持ち、そもそもあんまり持ちようがないし。

 あとでツイッターを見たら、「あの話のあとにあの曲、さすが佐久間さん」とか「あの曲やっぱり最高」みたいな賛辞の言葉が、いくつもツイートされていた。いや、そのとおりです。私もそう感じました。感じましたが。

 

 あと、その退社トークの後半での、佐久間宣行の、この発言。

「サラリーマンをやめた途端に、金髪にする人いるでしょ。石井(玄/ディレクター)もさ、ミックスゾーンをやめてニッポン放送に入社するまでの間、金髪だったよね。俺、あれ、超ダセえと思ってたからな(笑)」

 僕は、自分と同じ歳の美容師(男性)に、長年、髪を切ってもらっている。以前から、彼はよく、僕の髪を切りながら「いっそモヒカンにしちゃいます?」とか軽口を叩いていたのだが、6年前、会社を辞めてフリーのライターになって、最初に切ってもらっている時、「あ、べつにもうモヒカンにしてもいいんじゃん!」と思った。その瞬間、無性にそうしたくなり、彼に伝えた。

 そしたら「いやあ、ないでしょ」と、すんげえ冷静に却下された。

 いやあ、よかった、却下されて。

クラブハウスとラジオの話、というかラジオの話

 

 日常的にラジオをよく聴いている人で、クラブハウスにハマっている人って、少ないんじゃないか、と思う。あくまで僕個人の印象だが。

 

 クラブハウスってラジオみたい、という声があることは、知っている。TBSラジオ深夜の馬鹿力』2021年2月8日の放送でも、伊集院光が、そのことについて触れていた。

 クラブハウスは、招待制だったり、アンドロイド端末では聴けなかったりして、誰もが自由に触れられる音声メディアではない、そこがラジオとは違う、というような話を、彼はしていた。

 勝手に補足すると、自分がそこにいて話を聴いていることを、周囲が認識できるようになっていることや、挙手して当てられれば自分も発言ができる、だから面識のない相手と直でコミュニケーションが取れる、つまりSNSであることが、ラジオと違う。というのも、大きいと思う。

 しかし。そのへんを全部無視して、単なる「人の話を聴くメディア」として捉えると、もうこれ以上増やしたくないのです、私。

 

 中学高校の頃は、1日中ネタを考えて『ビートたけしオールナイトニッポン』にハガキを送る日々だった。自ら進んで何かを書く、という行為をしたのは、それが初めてだった。

 それから、大学を卒業して就職した先は、長年聴き続けているラジオDJが経営する会社だった。

 つまり、ラジオで人生が決まって、今に至っている人間である、自分は。

 勤め人になって以降は、『電気グルーヴのオールナイトニッポン』あたりを最後に、いったんラジオから離れた。が、会社を辞めてフリーのライターになる、その数年前から再びラジオを聴くようになった。そして、2015年の4月にフリーになってから、さらに拍車がかかった。

 それから1年が経った頃。月〜木の朝8:30〜11:00に、TBSラジオで『伊集院光とらじおと』が始まると知った時の絶望感は、今でも忘れられない。

 やめてよ! 聴かなきゃいけないじゃない! せめて勤め人だったらあきらめられるのに!

 というわけで、2016年4月11日以降、僕の月〜木の午前中のスケジュールは『らじおと』に縛られることになる。その時間、ラジオを聴きながら働ける職種もあるが(トラックの運転手とか)、ライター業は、それは無理なので。

 よって、しばしの試行錯誤期間を経て、その時間を「ランニング、その後ジム」に当てることで落ち着いて、現在に至る。

 

 それ以降は、聴くラジオをとにかく増やさないことを心がけながら、暮らしてきた。それでも、絞りに絞っても、じわじわと増えていく。

 高田文夫が出る月金と、清水ミチコとナイツの組み合わせが最高の木曜は、『ラジオビバリー昼ズ』を聴くのをがまんできなくなったり。

 自分が大好きな番組、テレビ東京『ゴッドタン』のプロデューサーである佐久間宣行が、『オールナイトニッポン0』を始めたり。

 ラジオ書き起こし職人、みやーんZZのサイトで読んでいるうちにがまんできなくなって、『安住紳一郎の日曜天国』を、聴くようになったり。

 『ACTION』が終わってホッとしたと思ったら、そこからの派生で『宮藤さんに言ってもしょうがないんですけど』がスタートしたり。

 

 せめて、TBSラジオニッポン放送だけで抑えたかったが、ラジオ業界で売れっ子の放送作家、ミラッキこと大村綾人とうっかり知り合ってしまい、彼がbayfmで、出る側としてスージー鈴木とふたりで始めた『9の音粋』月曜が、やたらおもしろくて、聴かざるを得なくなったりもした。

 もっと前だが、関西の音楽ライター、鈴木淳史と知り合ってしまったのも、痛かった。彼が編集者の原偉大とふたりで、大阪のABCラジオでやっている『よなよな木曜 なにわ筋カルチャーBOYZ』を、チェックしないと落ち着かなくなったので。

 

 2020年9月から、ナイツがニッポン放送で、月曜〜木曜13:00~15:30で『ナイツ・ザ・ラジオショー』を始めた時は、もう怒りすら覚えた。そして、自分の中ではっきりと「聴きません!」と決めた。

 『木曜ビバリー』と、土曜9:00〜13:00の『土曜ワイドラジオTOKYO ナイツのちゃきちゃき大放送』だけで、もう手一杯なんだから、こっちは!

 なので木曜は、『ビバリー』が終わったら、心を鬼にしてラジオを切る。しかし、翌日の金曜は、『ビバリー』から、ついそのまま『中川家・ザ・ラジオショー』を聴いてしまったりすることもあるので、まったくもって油断ができない。

 

 がまんしているものは、まだまだある。火曜と日曜の爆笑問題とか。火曜のCreepy Nutsとか。木曜のハライチとか。土曜深夜のエレ片とオードリーと空気階段とか。

 本当はジェーン・スーだって、『たまむすび』だって聴きたい。『アトロク』を聴き始めたらおしまいだ、朝も夜もTBSラジオに縛られることになる、と、己に対して固く禁じている。

 そもそもの資質として、残りの人生の起きている時間のすべてを「ラジオを聴くだけ」で、余裕で塗りつぶせるような人間なんだから、自分は。

 

 あと、本業は音楽ライターである、というのも、忘れてはならない。音楽も聴かなきゃいけないんだから。

 って、なんだ「聴かなきゃいけない」って。義務か。違います。仕事ですが、単に好きで聴くところから始まっているんです、もちろん。

 が、それを言ったら、ラジオだって、最近、若干だが、そうなりつつある。この間、三才ブックスが出している『必聴ラジオ2021』というムックから原稿依頼があって、5つの番組について書いたし。

 

 というわけで、聴けば絶対おもしろいことがわかっているラジオを大量にがまんしているのに、素人がしゃべっていて、トークのおもしろさの面でラジオに劣る、クラブハウスに割く時間は、ない。という判断なのでした、僕の場合。

 あ、ただし、「自分の好きな人はラジオとかやらない、その人のしゃべりが聴きたい」という動機で、クラブハウスを聴く、というのは、理解できます。

 

 まあ、時間がないとか言い出したら、ラジオやクラブハウスに限らないんだけど。

 ネットフリックスやアマゾンプライム等の映像配信サービスといい、Spotifyなんかの音楽配信サービスといい、一流の芸人たちが惜しみなく持ちネタをばんばんアップしているYouTubeといい、スマホでいくらでも読めちゃうマンガといい、もうあきらかに「おもしろいものが供給過多」な世の中なので、現在は。

 ついて行けない。もともと、アルバム1枚あれば1週間すごせるような、雑誌は広告ページまで読まないと気がすまないような、買った本は何度も読み返すような、そんな10代を送ってきたんだから、こっちは。

 佐久間宣行の「コンテンツ全部観る男」っぷりとか、ほんと、信じられない。間違いなく、俺の何倍も忙しいのに。どうやって時間を作っているんだろう。ちょっとした空き時間とかもフル活用して、常にスマホでなんか観ている、と、ご本人はラジオでおっしゃっていたが。

 

 あと、かつての自分の雇用主のラジオも、最近、聴くようになってしまった。数十年ぶりに。

 NHK-FM、日曜17:00からの、渋谷陽一の『ワールドロックナウ』。毎週日曜の夕方は、ほぼ100%ライブに行っていたのが、新型コロナウイルス禍でそうでもなくなった、だから時間ができたのが、直接的なきっかけではある。

 が、株式会社ロッキング・オンで働いていた頃の、「会議や取材立ち会いやダメ出しで、毎日毎日会社で聴いている声を、家でも聴く気にはなれません」というメンタルから解き放たれたのも、大きいと思う。

 NHK-FMといえば、その前の時間、日曜16:00からの、片寄明人の『洋楽 グロリアスデイズ』も、おもしろいのよねえ。

誰かの間違い、スルーするべし  

 

 2020年12月10日(木)の、ニッポン放送高田文夫ラジオビバリー昼ズ』、清水ミチコとナイツの日を聴いていた時のこと。

 リクエストコーナー『音楽道場破り』の、この日のお題は、水島新司が引退を発表したことを惜しんで、『野球マンガ・野球アニメリクエスト』だった。で、その中で、ちばあきおの『キャプテン』と『プレイボール』が好きだ、という投稿が読まれた。清水ミチコ土屋伸之も知らない様子だが、塙宣之は「おもしろいよ、『キャプテン』」。

 というわけで、塙がふたりに説明を始めたのだが、どうやら彼も、昔読んだかアニメで観たかしたっきりで、すごく詳しいわけではなかったらしい。「いちばん好きなマンガ家は?」と問われれば、即座に「ちばあきお小林まこと!」と答え続けて40年の、僕のような奴からすると、若干記憶があやふやなところがある話しぶりだった。

 たとえば、「キャプテンが替わっていくんだよね。谷口から、イガラシに──」。

 

 思わず「おい!」と言いたくなった。

 丸井を飛ばしとるやないか!

 谷口、丸井、イガラシ、近藤でしょうが、キャプテンの引き継ぎ順は!

 で、「キャプテンが卒業しても、気になって練習を見に来るんだよね」って、いや、それが丸井ですから! 谷口はそんなことしないし。そうか、塙、そのあたりの記憶がごっちゃになってるってことか。

 

 思わずツイッターを開き、そのことを指摘するツイートを、大急ぎで書き始めた。140字に収めるのに苦労しながら、とにかくなるべく猛スピードで書いて、ざっと読み直して、さあツイート、というところで。

 我に返った。

 で、ツイートせずに消した、その140字。

 危なかった。やってしまうところだった。

 

 基本的に、メディア上で誰かが何かを間違って伝えていた時、ツイートとかで誤りを指摘するべきなのは、その間違いによって、具体的な迷惑をこうむる人がいる可能性がある時だけだと、僕は思っている。

 たとえば、ライブの開演時刻、18:30なのに間違えて19:00と言っていたとしたら、それを信じて19:00に行っちゃう人がいるかもしれないから、気がついたら正した方がいいだろう、と思う。

 でも、この『キャプテン』の間違いの場合、誰かが困る可能性、ある? 具体的な迷惑をこうむる人、いる?

 いませんよね。『キャプテン』を知らない人は、聴いて「ふーん、そうなんだ」と思うだけだし、詳しい人は「あ、丸井を飛ばしてら」と思うだけだ。

 「そういうマンガがあるのか」と、興味を惹かれて読んだ人がいたとしても、「あ、谷口とイガラシの間に丸井ってキャプテンがいるのか。塙、そこを飛ばしてしゃべってたのか」と、正解を知るだけである。

 そこで「ふざけんな! 谷口から直でイガラシじゃないなら、買わなかったのに! カネ返せ!」みたいなことになる? なりませんよね。だったらべつにいいですよね、ほっといたって。

 

 そんな、べつにほっといたっていい間違いを、なぜ僕は指摘しようとしたのか。

 塙より俺の方が『キャプテン』に詳しい、だから塙より俺の方が上。という、マウント欲が満たされるからですね。テレビ・ラジオに出まくっている売れっ子芸人で、天下の『M-1グランプリ』の審査員である塙よりも、このポイントにおいてだけは、俺の方が優れている、という。

 

 どうでしょう。しょうもないでしょ、もんのすごく。

 

 自分が人より上であることを見つけたら、即座に喜々としてアピールするのね。ってことは、もう本当に、そういう思いに飢えて飢えてしょうがない日常を送っているのね。

 というか、自分が人より上なのか下なのか、という意識に、日々ガッチガチに囚われながら、暮らしている人なのね。

 という事実を、わざわざ万人にお伝えして、何かいいこと、あるだろうか。

 ない。

 

 たとえば「『キャプテン』特集」とか「ちばあきお特集」で、それなりの尺を割いて語るコーナーなのであれば、まだ、「おい!」と言いたくなるのもわかる。

 丸井を飛ばすなよ。あと、中学野球の話である『キャプテン』の「高校野球編」である『プレイボール』の話も、もっとしろよ。

 さらに言うなら、2017年から「グランドジャンプ」でコージィ城倉が『プレイボール2』の連載をスタートした、大昔に終わったマンガの続きを別の作家が描くという極めて稀なトライアルである、現在も連載は続いていて2020年12月現在で10巻まで単行本が出ている、ということにも触れなさいよ。

 ぐらいのことは言ってもいい、「特集」なら。でも、「好きな野球マンガを挙げてください」というテーマで、いっぱい投稿が来る中に『キャプテン』があっただけなんだから。詳しくなくてあたりまえでしょうよ。というか、その投稿、塙も『キャプテン』を読んでいなかったらスルーされたろうから、読んでいただけまだいいじゃないのよ。

 

 というふうに、ちょっとしたツイートや書き込みや写真なんかをアップした時点で、「こいつ、こういう奴なんだな」「こういう心理状態なんだな」ということが、万人にばれてしまう。

 というのも、SNSの怖いポイントのひとつです。気をつけます。気をつけているつもりでも、こんなふうに、ついやりそうになるくらいだし。

 

 ということを書きながら、自分がちばあきおを大好きで、今も『プレイボール2』をちゃんと追っていることをアピールしている、という時点で、あれね、だいぶ気持ち悪いね、こいつ。

 と、ここまで書いて、読み直して、思いました。だったら素直に最初から『プレイボール2』について書けよ、と思う。

 

 あと、2020年の最後に書くブログがこれって、どうなのよ。とも思う。

本人に言うなよ

 知人の作家からきいた話。

 

 「○○さんの本、大好きです。図書館に入るのを楽しみに待っています」

 とか、 

 「○○さんの大ファンです。新しい本が出ましたね、今メルカリ待ちです」

 というようなリプが、日常的に、ごく普通に、いろんな人から飛んでくるのだという。

 イヤミとかで言っているのではない。というか、イヤミなのであればまだ理解できるが、じゃなくて、素直な好意の表明として、そう伝えてくるのだそうだ。

 

 マジか。どうなってんだ、この世の中は。

 と、頭を抱えたくなるが、こんなような「失礼」は決してめずらしくない、普段から平気で飛び交っている、それがSNSの世界である、というのは、まあ、事実だ。

 と書いているこの文章にも、「何が失礼なんですか?」みたいな声が飛んできかねない、とすら思う。

 あのね、「図書館に入るのを楽しみに待っています」というのは、「あなたの本にカネは払いません」と言っているのと同じなんです。現に、周囲には、「買いました」とか「予約しました」というリプが多数飛んでいるわけで、その中にあって「読みたいけど買いはしない」と本人にわざわざ伝えている自分は何? って思わない?

 思わないんだろうな。思ってよ。で、わざわざ本人に言うなよ。と、つくづく思う。

 

 基本的に本は買わない、読みたければ図書館で予約して、順番が回って来るまで半年くらい待つ、という人が、けっこうな数いることは知っている。メルカリ待ちの人がいる、ということも然りだ。

 僕だって、書店で気になる本を手にとって、奥付を見て、「あ、これ、出てもう1年半経ってる、じゃあ、あと半年も待てば文庫になるから、待とう」みたいなことは、ごくあたりまえに、ある。

 あるけど、それ、わざわざその作家本人に伝える? 伝えません。「文庫になるのを楽しみに待っています」イコール「文庫になるのを待ちきれなくて買っちゃうほど読みたいとは思っていません」ということなので。

 

 でも言っちゃう。という人が、なんでこんなに多いのか。

 ツイッター等の普及によって、何かを思ったらすぐ言う、ということが、肉体化している人が増えたからだと思う。

 そもそもツイッターって、始まった頃は、朝起きて「眠い」とか、外に出て「今日は寒い」とか、昼になって「おなかすいた」とかいうような、「そんなこと人様に伝えてどうする」みたいなことでも言っていい、不特定多数に発信していい、というのが魅力で広まったところも、大きかったですよね。

 で、普段からずっとそれをやっているうちに、何かを思ったらすぐツイートしなきゃ気がすまない、思っただけで黙っているのは気持ちが悪くて落ち着かない、そういう脳味噌になってしまう、という。

 ひとりごととしてのツイートですらそうなんだから、相手がいたらなおさらそうなるのは、頷ける。この人がツイートしたこの件に対して、自分はこう思った、だから言う、それが本人に直接届く、というのも、SNSが画期的だったポイントなわけだし。

 ただし、ひとりごとと違って、その声を受け取る特定の個人がいるんだから、発する前に「その人がどう感じるかを考えてから発する」というフィルターを通すべきなのに、通さない。誰に向けたわけでもないひとりごとと同じように、「思った→言う」と、直で進んでしまう。で、それが肉体化しすぎると、そのことの何がいけないのか、わからなくなってしまう。

 

 あと、「好意なんだからいいじゃないか」という、ものすごくざっくりした、極めて大づかみな判断もあるんだろうな、とも思う。

 これが「あなたの本、好きじゃないから買いません」というマイナスの感情だったとしたら、「本当に伝えるべきか、否か」という思考をはさむけど、「買わないけど(あるいは「定価では買わないけど」)好き」、というのは、「好き」なんだからプラスの感情でしょ、ベクトルとしては。

  だったら伝えていいじゃん。なのに、なんでそこで「でも買わないってことじゃん」みたいな、ひねくれた受け取り方をするの? という。

 昔すぎて誰だったか忘れてしまったが、音楽のストリーミング・サービスやダウンロード販売が今ほど普及していなくて、おカネのない中高生とかは、CDをCD-Rに焼いて聴いたり、違法サイトで探して聴いたりする子が多かった時代のこと。「できれば音楽は、CDを買って聴いてくれるのがうれしいです」とツイートしたミュージシャンに対して、「え、ファンからおカネ取るんですか?」とリプを飛ばしている子がいて、そのミュージシャン、絶句。という光景を見たことがある。

 それも「好きなんだからいいじゃないか」という意味で、近い例ですよね。そうか、そんな昔から、世の中はもうそういう方向に向かっていたのか。うー。

 

 ちなみに、その作家のところには、「図書館に入るのを楽しみに待っています」というのを超えて、「図書館にはいつ入りますか?」という問い合わせのリプが届くこともあるそうです。

 ああ、もう、なんかねえ。

『エール』の「感謝しかない」で考えたこと  

 

 最初に。以下は、番組にクレームを入れたいとか、訂正を求めたいとか、いちゃもんをつけたいとか、そういう趣旨のテキストではありません。ただ、おもしろいなあ、と思った、というだけの話です。

 

 2020年11月26日(木)放送の、NHK朝の連続テレビ小説『エール』の、実質的な最終回(あと一回あるけど、それは出演者総出で歌いまくるスペシャル版だそうなので)でのこと。

 「私はきみの才能に脅威を感じて、クラシック畑から流行歌の方へきみを追いやった。私を許してほしい」という内容の、亡くなった小山田耕三(志村けん)からの手紙を読んだ裕一(窪田正孝)が、「小山田先生には、感謝しかありません」と言うシーンがあった。

 

 とても違和感があった。

 

 というのは、この「感謝しかない」とか、「驚きしかない」みたいな、「〜しかない」という言い回しが、書き言葉や日常会話でよく使われるようになったのって、つい最近だと思うのだ。

 よく使われるようになって5年くらいか、8年くらい前からだったか、とにかく、長めに見ても、ここ10年以内くらいじゃないだろうか。というのが、僕の認識である。

 

 ただ、『エール』の脚本家だって、「マジで?」とか「エモい」とかは、間違ってもセリフには使わない。つまり、「しかない」は、「マジで?」や「エモい」のように、その時代にはこの世になかった言葉ではなくて、その時代にもあったんだけど、あんまり使われていなかった、もしくは、今のような使われ方ではなかった言葉ではないか、と思うのだ。

 昔は、「しかない」を使う場合は、「お母さん、ソースない?」「醤油しかないわよ」というような使われ方に限定されていた。それが、いつの間にか、「感謝しかない」とか、「驚きしかない」というように……待てよ。

 「感謝しかない」も「驚きしかない」も、「醤油しかない」と同じく、「名詞+しかない」ですよね。

 これ、昔だったら、たとえば「一応、薬を処方しておいたよ。気休めでしかないが」とか、「ここまでの努力も徒労でしかなかった」というふうに、「しかない」の頭に「で」が付いていた。

 じゃあ今の「感謝しかない」は、その「で」が省かれたということか? でも「感謝でしかない」って、何か変ですよね。「驚きでしかない」は、まだいいけど。

 

 と、書いてみて気がついた。そうか、「でしかない」がくっついていい言葉の意味合いが、昔はある程度、決まっていたのかもしれない。

 「気休め」も「徒労」も、ネガティブ方面の言葉ですよね。「しかない」は、そういう時に用いられる言葉だったのが、ある時から「感謝」とかのポジティブ方面の言葉にもくっつくようになった。で、その際に「で」がじゃまなので、「感謝しかない」と、ダイレクトにくっつくように変わった。ということなのかもしれない。

 

 でまた、こういう言葉って、「クセがすごい」みたいにルーツがはっきりしているものとは違って、なんのきっかけで今のように使われるようになったのかが、わからないのも、おもしろい。誰が使い始めたんだろう。どんなふうに広まったんだろう。

 

 あ、この文章、「しかない」について検索して調べるとかは、一切せずに書いています。調べてわかっちゃったら、書く理由自体がなくなるので。それに、特に結論を出すつもりもないので。

 あと、くり返しますが、『エール』にいちゃもんをつけたいわけではありません。いちゃもんをつけるんだったら、「当時は『感謝しかない』なんて言い方しねえよ」とかいう以前に、「その時代の日本人の男が誰もタバコ吸ってないなんてありえねえよ、コロンブスレコードも喫茶バンブーも煙モクモクのはずだろ」という方が大事だと思うので、時代考証的には。

 

 でも、それもいちゃもんつけませんけど。なんでそうしなかったのか、よくわかるので。宮崎駿の『風立ちぬ』の喫煙シーンに抗議が来たりしていたし。

 その意味では、『いだてん』は、がんばっていましたよね。でも、その『いだてん』にも抗議が来ていて、「ああ、もう。だって史実じゃん!」と、ほとほとイヤになったものです。

 

 しかし、こういうことをうだうだ考えていると、せっかく大学に行くんだったら、「他の学部より入りやすい」なんていう雑な理由で経済学部を選ばないで、文学部とかに進めばよかったなあ、と思います。まさかライターになるなんて、想像すらしなかったしなあ。

リモート・インタビューの話  

 「民生さんがおまえに敬語使うとるんが気持ち悪い」

 

 というLINEが、リアルサウンド奥田民生のインタビュー(https://realsound.jp/2020/06/post-570533.html)を読んだ、地元の友人から届いた。

 高校の同級生で、当時僕とバンドをやっていて、奥田民生がアルバイトしていた広島駅そばのスタジオ、スズヤに一緒に通っていた、つまりOTとも面識がある奴なので、よけいにそう思ったのだろうが、それ、言われるまでまったく気がつかなかった。読み直して「ほんとだ!」ってなりました。

 

 なんでそうなったのか。リモートでインタビューを行ったからだと思う。

 そのインタビューの時のPCの画面、僕とOTとリアルサウンドの編集者の、3人が映っている状態だった。なので、質問をするのは僕だが、OTがしゃべる時は、ふたりに向かって答える、という具合になる。だから、敬語になったんだと思う。

 

 リモートでのインタビュー、コロナ禍以降、あたりまえになった。コロナ禍が収まっても、それが主流になって、対面のインタビューは廃れていくんじゃないか、と懸念している同業者もいる。確かに、そういう風潮を肌で感じることもある。そうなったらたまったもんじゃない、と、憤っている知人もいる。

 が、僕は、そんなにストレートに憤れないところが、正直ある。長い尺を必要とするインタビューや、込み入った話を訊きたい時は、「リモートだとやりにくいです、対面じゃなきゃ困ります」と思うが、「リモートでOKです」という場合もあるので。

 たとえば、雑誌でいうと、ボリュームは1ページで毎回同じ趣旨のコーナー、尺は30分、というインタビュー、実際に先日あったのだが、記事として仕上げ終わった時、「これ、リモートで充分だったな」と思った。

 逆に、最初から2時間を超えることがわかっている、訊かなきゃいけないことがいっぱいあるインタビューの時は、「これ、なんとか対面でできませんかね?」と相談し、「広い部屋で、遠く離れて行う」ということになった。声がよく通る相手で助かった。そのインタビュー、結局3時間半超えになって、対面にしてよかった、と、つくづく思った。

 で、その中間というか、「リモートでやったけど、対面ならもっと盛り上がったのに」というケースもあった。今のところはないけど、その逆で、「対面でやったけど、これリモートで充分だったわ」というものも、今後、出てくるかもしれない。

 

 あたりまえだが、インタビューするのに、指定された場所まで出向かなくていい、自宅でできる、というのは、メリットも大きい。たとえば、13時〜14時でインタビューが入っていて、同じ日の15時で別のインタビューの依頼があったら、これまでなら断っていた。スムーズにいけば移動込みで間に合うけど、万が一、13時の人が遅刻してスタートが押したりすると、次の取材相手を待たせることになるかもしれない。それは絶対ダメなので、そういうギリギリのスケジュールは、組まない。

 ということにしていたんだけど、リモートなら引き受けられる。せこいことを言うと、交通費もかからない(インタビューもライブも、地方出張以外は交通費出ないのが普通なのです)。あと、スケジュールをきいて、「すみません、その日、地方に行ってまして」という時も、リモートなら不可能じゃなくなる、という場合もあるし。

 

 インタビューを受ける側もそうですよね。ラクですよね。特に相手が地方のラジオ局とかだったら、キャンペーンに行かなくてすむ。来てくださいよ! と、メディア側は思うだろうが、「スケジュール的に行けないからインタビューできない」というのと、「行けないけどリモートならインタビューできる」というのだったら、どっちがいいですか? と言われたら、後者を選ばざるを得ないだろうし。

 要は、それでも対面でやりたいなら、先方に「対面でやった意味があった」と思わせる内容にしないといけない、ということだ。先方にだけじゃない、読者にもですね。要は、よりシビアになった、という話だ。

 

 そういえば、フルカワユタカには、LINEでインタビューした。BARKSで彼が連載しているコラムがとてもおもしろくて、「書ける人だなあ」と前から思っていたのと、自分とは古くからの付き合いなので、画面越しで一問一答でやるよりも、LINEでポンポン言葉を交わした方が、リラックスした感じになって本音が出そうだな、と思って、そう提案したのだった。

 こちらです。https://www.diskgarage.com/digaonline/interview/144427

 

 それから、くるり岸田繁の、ニュー・アルバム『thaw』に関するインタビューは、往復書簡という形で行った。編集部からリモート・インタビューでオファーしたのだが、くるりサイドから、メールでのインタビューがいい、という希望があって、文章で質問を送って文章で返事をもらうことになった。

 本人の希望なのか、ビクターのスタッフ等の発案だったのか、そのへんはわからなかったが、戻ってきた回答を読んで、「文面でよかった!」と納得した。僕の質問に口頭で答えていたら、こういう内容にはならなかったであろうことが、読めばあきらかなので。

 こちらです。https://realsound.jp/2020/06/post-565781.html

 

 にしてもOT、俺のインタビューに敬語で答えてるのって今回だけなのかな、最近普通に対面でインタビューした時はどうだったっけ、と思い、昨年11月に出たユニコーン『服部』の単行本(https://www.rittor-music.co.jp/news/detail/16478/)の、彼のインタビューを見てみた。

 発言の語尾、敬語じゃないところと、敬語のところが、入り混じっていた。

 このインタビュー、編集者も同席していて、彼が質問している箇所もちょっとある。その彼の質問に対しては語尾が敬語、僕の質問に対しては語尾が敬語じゃない、という色分けに、おおむね、なっていたのだった。

 これも、今の今まで気がつかなかった。OTの、なんというか、几帳面さのようなものを感じます。

高田文夫になりたかった 真面目はいやだ  

 という歌詞が、グループ魂の「高田文夫」という曲の中にある。曲名がすべて人の名前になっている『20名』、2015年リリースのアルバムの収録曲だ。

 宮藤官九郎という表現者について、俺はすごくよく知っているとか、深いところまで理解しているとかは、全然思わないが(僕より100倍詳しい同業者、いくらでもいるので)、ことこの曲に関してだけは、彼の気持ちの芯の部分が俺はわかる。と、聴くたびに思う。今でもライブで聴く機会があるたびに(ってグループ魂、コロナ以前から長いことライブやってないけど)、つい、泣きそうになってしまう。

 それは、宮藤官九郎のファンだから、というよりも、10代の頃『ビートたけしオールナイトニッポン』を聴いて、たけしの次に高田文夫に傾倒して育った、という部分で、彼と同じ人種だからだ、と思う。彼の2学年上の自分が。

 

 ずっと笑っていたい。まじめなことや重たいことや、めんどくさいことやシリアスなことや、シビアなことや悲しいことからは、とにかくもう逃げていたい。逃げて逃げて、逃げ切ったままで、できれば一生を終えたい。

 というメンタリティがわかる人、どれくらいいるのかわからないが、14歳で『ビートたけしオールナイトニッポン』に出会って以降、その感覚は、自分の中の深いところにずっとある。というか、動かしようがないものになっている。

 実際にそんなふうに生きられるわけがないことは、もう何度も思い知ってきた、現在であってもだ。で、そんなふうに生きたいと思うこと自体、どうなのよ? という疑問を、持ち続けていてもだ。

 

 その感覚は、ビートたけし以上に、高田文夫が放っていたものだ。たけしはラジオの中であっても、それと同時に、シリアスな面や重たい面も隠さない人だった。高田文夫も、たとえば著書の中では、シリアスな面を全然出さないわけではないが、でも、限りなく少ない。で、ラジオとかだと、ほぼなくなる。

 とにかく笑っていたい。笑うって素敵。笑うって最高。笑うことで、すべての面倒から逃れてしまいたい……とまでは、ご本人は言っていないが、広島の中学生は、まあ、そんなふうに解釈したわけです。

 なんで。それが都合よかったからだと思う、自分にとって。

 

 「すべてを洒落のめし、決してマジは言わず」

 

 どの本だったか失念してしまったが(なので、たまに探して読み返すんだけど、出くわさなくて困っている)、高田文夫の著書に、そんなようなフレーズを見つけた時、すごく腑に落ちたのを憶えている。ああ、やっぱりそうなんだ、だから俺はこの人に惹かれているんだ、と。

 それは、自分だけじゃなくて、同じように80年代に10代を送って、たけし&高田に出会った、そして多大な影響を受けた、という人たちのうちの何人かには、ずっしりと根を下ろしている感覚らしい。

 ということを、僕はグループ魂の「高田文夫」を初めて聴いた時、知ったのだった。ああ、宮藤さんもそうなんだ、と。

 さっきも書いたが、もちろん人はそんなふうには生きられない。宮藤さんだって、というか高田文夫本人だって、まじめなことや重たいことや、めんどくさいことやシリアスなことや、シビアなことや悲しいことから、逃げ切りながら生きているわけがない。

 あたりまえだ。でも、それでも、という話だ。

 

 当時の高田文夫は、まだ「ぼちぼち本とかも出し始めた売れっ子放送作家で、たけしの前で笑っている人」だったが、その後、景山民夫との『民夫くんと文夫くん』(ニッポン放送)を経て、立川藤志楼として落語を始めたりもしつつ、1989年に昼の帯番組『高田文夫ラジオビバリー昼ズ』(これもニッポン放送)がスタートして以降、その「すべてを洒落のめす」フォースを、さらに全面的に開花させていくことになる。

 

 なんでこんなことを書いているのかというと、今、『高田文夫ラジオビバリー昼ズ』を聴いていると、そのことを思い出すから、なのでした。現在も高田文夫が出演する月曜と金曜、特に金曜。高田文夫&松村邦洋&磯山さやかの日。

 新型コロナウィルス禍で、来る日も来る日も、極めて具体的な心配だらけ、極めてリアルな不安だらけだ。現に僕も、仕事、全然なくなったし。というか、自分が属する業界自体が、本当にピンチに陥っているし。あと、安倍政権の、もはやフィクション? と言いたくなるほどのひどさに、怒りだらけの毎日です、というのも大きい。

 という現在にあっても、『金曜ビバリー』を聴いている90分の間だけは、「すべてのしんどさから笑いで逃げ切る」ことが実現しているのだ、僕の脳内は。

 

 毎週毎週、本当にくだらない。高田文夫の手数が多すぎるまぜっ返しと、松村邦洋の供給過多なモノマネによって、コーナーが全然進行しなくて、磯山さやかが困り果てる『週刊IQクイズ』が、特に僕は大好きなのだが、最近彼女がフワちゃんのモノマネを会得してからというもの、さらに収拾がつかなくなっていて、楽しいったらありゃしない。『木曜ビバリー』の、清水ミチコ野上照代(黒澤映画のスクリプター)のモノマネと、双璧だと思う。

 僕の中のラジオ・パーソナリティのナンバーワンは、もう長いこと伊集院光なのだが、彼はそういう「全面的に笑いで逃げ切る」タイプではない。今の世の中に自分が思うことについてもしゃべるし、時には自分の中の重い部分も言葉にする、そういう意味ではビートたけしに近いトークをする人なので。

 

 しかし、14歳の自分をラジオから救ってくれた人に、51歳の今、またラジオから救われている。しかも、世の中のほとんどの人が直面したことのないような、社会的危機の渦中にあっても。いや、渦中だからこそ、なおいっそう。

 という事実には、何か、「うーん、そうかあ」と思う。

 あと自分に「コロナ禍になってからラジオ聴きすぎ、おまえ。やるべきこともっとあるだろ」とも思う。