「メガホンを取る」と「お茶の間」
文章を書く時に、使うのをNGにしている言葉がいくつかあるのだが、その中で「便利なので使いたくなる、だから特に気をつける」という1位と2位が、僕の場合、「メガホンを取る」と「お茶の間」だ。
映画を監督することを「メガホンを取る」。電話をかけることを「ダイヤルを回す」と言うのと同じくらい違和感がある。形骸化している言葉、現代の実態に合わなくなっている言葉を、使うのがイヤなのだと思う。
「お茶の間」の方は、特にミュージシャンとか音楽ライターとかが「お茶の間まで届くような音楽」みたいな感じでよく使う。こっちに対する違和感は、「メガホンを取る」ほどは強くない。「今の家庭にお茶の間なんてねえよ」ということはない、と思うので。「家族みんなでテレビ観ねえよ、各自がワンセグで好きな番組観てるよ」とも言えるが、そうであったとしても、全員が食卓につける数の席があって、テレビを観ながらみんなで食事をすることが可能(するかしないかは別にしても)、という家庭の方が多いと思うので。
だから、「お茶の間」という言葉自体に、抵抗があるのだと思う。「囲炉裏端」というのと変わらない感じがして。辞書を引くと、「茶の間:住宅の中の、家族が食事をしたり談笑したりする部屋」と書いてあるので、全然間違ってはいないんだけど。でもなんかイヤ。
という、ごくごく個人的な感じ方の話です。「そう思う俺が正しい」というつもりはありません。ただ、「メガホンを取る」の方は、フリーのライターになりたての頃に、イヤだなと迷いつつも便利さに負けて使ったら、クライアントに「そういうのやめてください」とずばりと指摘され、ものすごく恥ずかしかったし後悔した。ということがあったので、それ以来、いっそう頑なに使わないようになったのだった。
あと、インタビューやレビューや尾崎の小説の書評なんかで、クリープハイプに触ることがあるライターが「世界観」という言葉を使っていると「おいおい」と思う。なんか意味ありげで、使いやすくて、でもなんのことを指しているのかがふんわりとぼやけている、だからむしろ使いやすい、そんなこの言葉を安易に用いる人への皮肉として、尾崎は自分の芸名にしたわけでしょ。それ、尾崎に読まれたら恥ずかしくない? と、不思議に思う。
というほどイヤではないし、本当になんにも間違っていないんだけど、「曲を流す」というのも、なんか避けてしまう。曲は「かける」ものであって「流す」ものではない、というか。いや、「流す」ものでもあるんだろうけど。特に(最近やってないけど)DJで、「兵庫さん、あの曲流してましたよね」とか言われると、「流してません! かけたんです!」と訂正したくなる。いや、だから、間違ってないんだけど。
あともうひとつ。最近気になるのが、テレビ番組で食い物を紹介する時に、とても高い頻度で使われる、「愛情をこめて」とか「愛情がこもった」というやつ。「おかみさんの愛情がたっぷりこもった定食」みたいな使われ方ですね。
愛情って、具体的な相手に向けてこめられるものですよね。だから、たとえば、お母さんやお父さんが子供のお弁当にこめるのはわかる。定食屋のおかみさんがいつも来てくれる常連さんに対してこめるのもわかるし、近所の××大学の学生たちが代替わりしながら長年通い続けてくれる、だからそこの学生たちに対してこめる、というのもわかる。
でもこの「愛情のこもった」という言い方って、たとえば連日大行列のお菓子屋さんみたいに、お客さんの名前も顔も把握しきれない、みたいな店の時にも平気で使われる、テレビを観ていると。
見知らぬ不特定多数に向けてこめる愛情って何? 「客」という概念への愛情なの? それ「人類愛」とか「地球愛」とかと同じようなこと? 食い物を作って売る際にこめるのがそれなの? というのが、とてもとても疑問なのだった。
はい。書いてみてよくわかりました。ただの言いがかりですね、これ。
あともうひとつ、ここまで書いて気がついた、「そんなこと言うんだったら」と言われてもしかたないこと。
僕がツイッターのアイコン等に使っている、河井克夫さんが描いてくださった自分の似顔絵イラスト、エンピツ持ってるんですね。ライターだから。
「おまえ今でもエンピツで書いてんのかよ」と言われたら、「書いてないです、すみません」と、謝るしかありません。