兵庫慎司のブログ

音楽などのライター、兵庫慎司のブログです。

初めての「ロック・イン・ジャパン・フェスに行かない夏」

  フジロックが終わって月曜に東京へ戻って、さあ次の週末からはロック・イン・ジャパン・フェス。というのが、本来のこのタイミング、8月の第一週末を待つ時期なのだが。

  今年2019年は、ロック・イン・ジャパン・フェスに行くのをやめた。

  ロック・イン・ジャパン・フェスが始まったのは2000年。2014年までは、このフェスを企画制作しているロッキング・オンの社員として、2015年からは2018年まではウェブや雑誌にライブレポを書くライターとして(途中から雑誌だけになったが)=つまり業者として、毎年全日現場に足を運び続けて来たが、今年で20年・今回は2週末で5日間、という2019年に、皆勤記録が終わってしまったのだった。

  行きたくないわけではもちろんないし、他の仕事を優先したわけでもないし、業者として呼ばれなくなったわけでもない……いや、最後のは「と思う」が付くが、とにかく今年に関しては、仕事とかとは別の事情で、最終的に「この二週末に俺がロック・イン・ジャパン・フェスに行くのをあきらめさえすれば、丸く収まるな」「『俺ががまんしなきゃいけない』ってことにさえ目をつぶれば、それが最良の選択だな」という結論に、行き着いてしまった。

  なので、ロッキング・オン社からお声がかかってから「今年は行けないです」と言うのだと迷惑がかかるかもしれないので、呼ばれてもいない時期から「今年は行けないのです」と連絡したのだった。

 

  で。行けないのはもうしかたないとして、8月1日木曜日現在、もっとも心配なのは、フェスが始まってから、自分がどのような精神状態になるのか、ということだ。

  昔ならいざ知らず、ツイッターでフェスの様子は逐一目に入ってくるし、映像の配信などもある。というのがダメな性格なのだ、実は。「行かなくても様子がわかるし、ステージも観れるし、便利でいいよね」というのとは逆で、「なんで俺はここにいないんだあああああ!」となってしまうタチなのです。

 「自分がいないところで、何か楽しそうなことが起きている」という事実は、別にいい。が、「自分がいないところで、何か楽しそうなことが起きている、という事実を知らされる」のがダメなのだ。

  そこに自分が行った結果、楽しかったかどうかはどうでもいい、とすら言える。「そこにいたか、いなかったか」の方が重要なのだ。自分が、年間180本以上ライブに行くのも、1本でも多くフェスに足を運びたがるのも、気になった映画は映画館で観ないと気がすまないのも、同じ理由だと思う。「行くと楽しい」からではなく「そこに自分がいない」という事実にイライラする、とにかく。

  ここまで書いて思った。病気ですね、これ。でも、音楽が大好きで、ライブが大好きで、熱心に足を運んでいるような人と話をするたびに「ああ、俺とは違う」と自覚することは、これまでにもよくあった。みんな「観ると楽しい」「興奮する」「感動する」というプラスのパワーに突き動かされているけど、自分は「観ないとイライラする」「そこにいないことにジリジリする」みたいな、マイナスのパワーに振り回されているなあ、と。いや、音楽、好きなんですよ? ライブ、楽しいんですよ? でも……という。

 

  先日のフジロックの3日目。ここ5~6年は毎年全日行っていたが、事情があって今年は断念した、という友人から「平沢進が大変なことになってる!」とラインが来た。Youtubeの生配信を観ているようだ。「レッドマーキー! すぐ行かないと!」。「無理、俺今ヘブンだから間に合わない」と返事したら「そう! そうなのよ!」と戻ってきた。

  曰く、フジに行けなくてすごく残念だったけど、生配信なら一瞬でステージ移動ができる、現場だったら観れなかったものも観られる、ということが新鮮だ、と。

  ちょっと「あ、なるほど」と思った。フジロックに行ったことのない人が配信を観ても別に普通だろうけど、あの会場の隅から隅まで頭に入っていて(その人はドラゴンドラにも毎年必ず乗るくらいの人です)、どこからどこまでの移動はどこを通って、混んだら何分、天気悪かったら何分、ということまで身体に刻み込まれている人にとっては、こうやってステージを瞬時に移りながらライブを観るというのは、おもしろいだろうなあ、と。

 

  というような気分で、僕は明後日からロック・イン・ジャパン・フェスと向き合えるでしょうか。

  向き合いたいが、無理な気がする。ならばいっそ、すべての情報を絶って、溜まっている仕事にひたすら向き合うべきだと思う。思うが……うー……。

  で、また、その「うー……」が二週末にわたって続く、というのも、ロック・イン・ジャパン・フェスならではですね。